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※この番組は、前年度の再放送です。

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今回の学習

第20回 第3章 近世社会の形成と庶民文化の展開

キリスト教禁止と鎖国

  • 監修講師:東京大学史料編纂所教授 山本博文
学習ポイント学習ポイント

キリスト教禁止と鎖国

歴史を語り合う茶屋、歴カフェ。
日本史が大好きな店員、小日向えりさんのもと、歴史好きの平野詩乃さん、市瀬悠也さんが集まってきました。
教えてくださるのは、山本博文先生です。

今回の時代は、江戸時代の初め17世紀。
江戸幕府は大坂の陣以降、大きな戦乱もなく支配体制が確立。
しかし、キリスト教徒の反乱をきっかけに幕府の国内政策、対外政策は大きな転換を余儀なくされます。
今回のテーマにせまる3つのポイントは「禁教と貿易統制の強化」「島原・天草一揆と鎖国」「鎖国下の対外関係」
江戸幕府が異国に対してどのような政策をとったのか、見ていきましょう。

禁教と貿易統制の強化

詩乃 「戦国時代から続いていた大きな戦乱も、大坂の陣以降は起きなくなって江戸幕府は順風満帆って感じだったよね。」

悠也 「家康は、将軍の地位をすぐに息子の秀忠に譲ることで、徳川家世襲の道筋も見えて、安泰って感じだったよね。」

えり 「必ずしも、手放しで安心…というわけにはいかなかったんです。」

山本先生 「特に対外関係が問題なんです。幕府は外国との交易には積極的で関係も良好だったんですが、日本に入ってきたキリスト教は幕府の支配と相いれない部分があるので、幕府の政策は国内的にも対外的にも変わらざるを得ない状況になっていくんですね。」

徳川家康は幕府を開いた当初、東南アジア諸国との親睦に努めました。
ルソン、カンボジア、シャム(タイ)などと貿易をするために、幕府は「朱印状(しゅいんじょう)」という渡航証明書を九州諸大名や商人に与えました。
そして、幕府が公認する貿易船「朱印船」が派遣されたのです。
朱印船の貿易によって輸出されたものは、銀・銅・鉄などの鉱産物や工芸品など。
輸入品は、中国から「生糸(きいと)」「絹織物」、南方からは象牙・砂糖などでした。

貿易が盛んになると海外に移住する日本人も増え、安南(あんなん/ベトナム)、カンボジア、シャムなど東南アジア各地に日本町ができ、自治が認められました。
シャムに渡った駿河の山田長政(やまだながまさ)は王室に重用され、シャムの外交や貿易で活躍しました。

また、幕府は中国の商船を歓迎したことから、長崎や平戸(ひらど)に多くの中国船(唐船)が来航しました。

さらに、台湾やインドシナ半島など東南アジアの各地で、日本と明の商人が取引する出会貿易(であいぼうえき)も盛んに行われました。
このころヨーロッパでは、スペインから独立したオランダと毛織物工業の盛んなイギリスが台頭し、国家の保護の下、それぞれ「東インド会社」を設立してアジアへの進出をはかります。

来航したオランダ・イギリスは家康から貿易を許され、平戸に「商館(しょうかん)」を開き日本との貿易を開始しました。
なかでも最大の貿易相手は、マカオを根拠地としたポルトガル人で、秀吉の時代から長崎に来航していました。

貿易以外にも目的を持つ国がありました。
新教国のオランダ、イギリスは貿易だけが目的でしたが、旧教国のポルトガル、スペインからは宣教師たちもやって来て、盛んに布教を行いました。

家康は貿易の利益のため、キリスト教宣教師の渡来と布教を黙認していました。
そのためキリスト教は各地に広まり、信者が激増しました。
宣教師の本国への報告によると、1605年頃には信者の数は70万人に達し、京都・大坂・堺などの主要都市に教会堂が建てられました。

家康は信者の増大に不安を感じ、1612年、直轄領に「禁教令」を出します。
翌1613年にはそれを全国に広げて信者に改宗を迫りました。
教会堂を破壊し、宣教師らを国外に追放したのです。

幕府は、貿易も制限しました。
1616年、2代将軍秀忠はヨーロッパ各国の船の寄港地を長崎と平戸に限定し、朱印状の発行を制限するようになったのです。
3代将軍家光は、禁教と貿易統制のいっそうの強化をはかりました。
諸大名にキリスト教の信者を捕まえるよう命じ、1635年には日本人の海外渡航を一切禁じるとともに、在外日本人の帰国も禁止しました。

当初、外国との貿易には積極的な政策をとっていた幕府でしたが、増大するキリスト教徒に脅威と不安を感じ、貿易を統制するようになったのです。

詩乃 「江戸時代の初めは、外国との貿易が盛んだったんですね。」

山本先生 「朱印船貿易で、東南アジア各地に商人をはじめとする日本人が、どんどん渡航していく、そういう時代なんですね。」

悠也 「当時の渡航っていうのは、僕たちがイメージする海外旅行とは違うんですか?」

山本先生 「そうですね。渡航するのは大名や商人たち、だいたい商売のために行っているわけですね。ただ中には海外旅行感覚の人もいたかもしれません。」

「カンボジアのアンコールワット遺跡に日本人が落書きしているんですね。“ようやくここまで来た、今後のために仏像4体をここに納めます”ということを、森本右近大夫という人が自分の名前を書いて残しているんです。これが現代では史料になっていて、このころ日本人がここまでやって来て、そういう仏像を奉納したということがわかる貴重な落書きになっているんですね。」


えりさん 「貿易における幕府のメリットは、財政が潤うという“うまみ”があったと思うのですが、それでも貿易を統制をしなければならないほど、キリスト教に対して危機感を抱いていたということでしょうか?」

山本先生 「そうですね。幕府、特に3代将軍家光は非常にキリシタンが嫌いで、1人も日本に置きたくないということで、その関連の政策をどんどん推し進めていくんですね。」

島原・天草一揆と鎖国

2018年、長崎の大浦天主堂(おおうらてんしゅどう)を含め、長崎と天草地方の潜伏キリシタン関連の12の構成資産が世界文化遺産に登録されました。
潜伏キリシタンとは、江戸時代、幕府の禁教政策にもかかわらず表面的には仏教徒を装うなどして、ひそかにキリスト教を信仰し続けた人々のことです。

戦国時代、長崎の島原・熊本の天草地方にはキリスト教に入信したキリシタン大名、有馬晴信(ありまはるのぶ)と小西行長(こにしゆきなが)の影響で、多くのキリスト教信者がいました。
江戸時代になると、さらにキリシタンは増大し幕府は危機感を感じ始めます。
幕府は厳しい迫害政策を行い、島原の領主もキリシタンを激しく弾圧、さらに飢えに苦しむ領民たちに過酷な重税を課し、払えない者にはすさまじい拷問を加えました。

1637年島原・天草地方のキリシタンが一揆をおこしました。
「島原・天草一揆(島原の乱)」です。

総大将は、敬虔なキリスト教徒・益田(天草)四郎時貞(ますだ[あまくさ]しろうときさだ)という少年でした。
一揆勢は島原半島南部の原城跡に立てこもり、キリシタン大名の旧家臣らが中心となって、戦いを繰り広げました。
総勢約3万8千人に上ったといわれています。
幕府は、九州諸藩を中心に12万人余りの軍勢を動員し、翌年ようやく鎮圧しました。

島原・天草一揆に衝撃を受けた幕府は、キリスト教信者を根絶するため、1639年にポルトガル船の来航を禁止しました。
キリスト教の布教を行うポルトガル人を追放したのです。

また、1641年には平戸にあったオランダ商館を長崎の「出島(でじま)」に移し、オランダ人の貿易活動にも制限を加えました。
長崎に来航するのは、オランダと中国の船だけとなり、江戸幕府は外国との貿易を完全な統制下に置くことにしたのです。
この体制を「鎖国(さこく)」と呼びます。

一方、国内ではキリスト教徒根絶のため「寺請(てらうけ)制度」を施行。
宗門改め(しゅうもんあらため)を行い、すべての人をお寺の檀家(だんか)とし、「宗門人別改帳(しゅうもんにんべつあらためちょう)」を町や村ごとに作らせました。
また、九州では毎年踏絵(ふみえ)を踏ませ、信者を発見しようとしました。
幕府はキリシタンに対して改宗を強制し、厳しい監視を続けました。
鎖国体制、そして禁教は幕末まで続きます。


詩乃 「ポルトガル人は一切日本に入れないのに、オランダ人は長崎の出島にいることができた、この差は何ですか?」

えり 「ポルトガルとオランダはどちらもキリスト教の国だけれども、旧教国、新教国という点が大きなポイントになるんです。」

山本先生 「旧教国と新教国のスタンスの違いは、ポルトガルなど旧教国は宣教師が商人を連れてくるんですね。宣教師はキリスト教を広めるために来ているので、幕府としては来てほしくないんです。オランダなどの新教国は、あくまで商人として来るわけですね。東インド会社という会社組織でやって来て貿易をする。そこには基本的には宣教師はついて来ないので、布教もしない。ということで幕府の対応も違ってくるわけです。」

鎖国下の対外関係

幕府の鎖国政策によって、来航するのはオランダ船と中国船に限られ、その窓口として開港していたのは長崎のみになりました。
しかし実際には、長崎以外にも対馬、薩摩、北海道の松前も対外的な窓口の役割を果たしていました。


対馬藩は朝鮮との貿易を独占し、外交業務を幕府に代わって行いました。
朝鮮からの輸入品は「朝鮮人参」「木綿」で、日本からは銀・銅などが輸出されました。
薩摩藩は、支配下に置いた琉球が中国の明や清と貿易を続けていたため、中国からの輸入品を手に入れることができました。
蝦夷地(えぞち)の南端を支配していた松前藩は、アイヌの人たちとの交易を独占的に行い、鮭(さけ)や昆布、毛皮などを手に入れることができました。

こうして鎖国下の幕府は、長崎・対馬・薩摩・松前を通して、異国との交流を持ちました。

悠也 「鎖国というと貿易をしてなさそうなイメージでしたけど…。」

山本先生 「鎖国って非常に難しいんですけど、日本がシャットアウトしたのはキリスト教なんですね。キリスト教を伝えるヨーロッパ人はシャットアウトしたいけれども、それまでのアジアの人たちとの関係は、キリスト教とは関係ないので構わないんです。」

「研究者の中には、完全にシャットアウトしていないので鎖国という言葉を使うのはよくないと言う人もいるんです。でも、鎖国という言葉は現在の研究者がつくった言葉ではなく、江戸時代の人が鎖国だと言っているんですね。
だから、私は鎖国という言葉使うことは構わない。ただ、鎖国というのはどういうものかということを、きちんと正確に理解する必要があると思うんですね。」

では、鎖国にメリットはあったのでしょうか。

山本先生 「鎖国をしていることによって、ヨーロッパの戦乱に巻き込まれないで、平和な時代が260年余りの間続いたというのがいいですね。
それから、物が足りないので国内でつくろうということで、国内産業が育成されたり、あるいは輸出品を開発していったり、そういう点が日本にとってはいい点でしたね。
現在の高級中華料理があるのは、鎖国政策があったからかもしれないんですね。」

日本史なるほど・おた話〜鎖国の影響

日本史のおもしろくてためになる話。
引き続き山本博文先生に伺います。

山本先生 「鎖国によって歌舞伎や浮世絵といった、日本の独自の芸術文化が熟成されたのは江戸時代なんですね。もし鎖国をしないで、西洋文化もずっと入ってきていたら、現在のような形で完成された芸術はできていなかったかもしれませんね。」

「ただ鎖国をしている間にヨーロッパでは産業革命が起こり、航海技術などはどんどん発展していって、日本はかなり遅れをとるわけですね。これが日本の近代化を妨げた原因ともいえるわけです。」

えり「でも、鎖国で国内の産業が育成されたとおっしゃっていましたよね。」

山本先生 「はい。江戸時代初期の日本がいちばん欲しかったもの、いちばん輸入しているものは中国産の生糸なんです。この生糸によって西陣織などの着物が生産され、上流階級の衣服にもなりますし、贈答品にもなりますね。
その生糸が日本では、ろくにとれないのでどんどん中国から輸入する。すると日本の金や銀がどんどん出て行くわけです。
幕府は金銀が出て行くことは、日本の財産がどんどん乏しくなっていくことになりますから、生糸の輸入をできるだけ制限して、金銀の輸出は禁止、流出を抑えるわけです。」

「ただ、生糸はどうしても必要なので、その生糸をつくるために各地の養蚕業(ようさんぎょう)や製糸業を育成しようと思って奨励するわけですね。その結果、日本の近代の最大の輸出品となるわけです。」

悠也 「それが世界遺産にも登録された富岡製糸場とかにも、つながっていったんですか?」

山本先生 「そうですね。富岡製糸場は官営模範工場で、生糸はどんどんつくっていましたが、工場の機械は遅れています。だから、フランスから機械を導入してさらに生糸をつくるようにして、日本の輸出産業の中心にしたわけです。」

「生糸の輸入制限は、金・銀の流出を抑えるためって言いましたよね。そもそも国内には金・銀に代わる輸出品はたいしたものがなかったんです。なので輸出品の開発が行われるわけですね。
そのうちのひとつが、『俵物(たわらもの)』とよばれる海産物なんです。俵に入れて輸出するので俵物っていうんですけれども、なまこを乾燥させた“いりこ” “干しアワビ” “フカヒレ”の3つを俵に入れて輸出するわけです。これは蝦夷地の産品を、日本が金銀の代わりに輸出したっていうことです。これはどれも中華料理の高級食材なんですね。」

「当時、日本産が一番だと言われるようになって、さらに蝦夷地を開発して。当時の中国では日本産の俵物の需要が非常に高くて、宮廷料理には欠かせない高級食材になったわけなんですね。」


それでは次回もお楽しみに!

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