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Eテレ 毎週 金曜日 午後2:00〜2:20
※この番組は、2019年度の新作です。

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今回の学習

第12回 第2章 武家社会の形成と生活文化のめばえ

執権による政治

  • 監修講師:東京大学史料編纂所教授 本郷和人
学習ポイント学習ポイント

執権による政治

歴史を語り合う茶屋、歴カフェ。
日本史が大好きな店員、小日向えりさんのもと、歴史好きの平野詩乃さん、市瀬悠也さんが集まってきました。

今回は、12世紀末から13世紀の鎌倉時代。
源頼朝が亡くなると、幕府の実権は次第に「将軍」から、将軍を補佐する「執権(しっけん)」へと移っていきます。
この時代を3つのポイント「北条氏の台頭」「承久の乱」「執権政治の確立」から見ていきましょう。
1221年に起きた承久の乱は、日本の歴史の大きな転換点のひとつ。
どんな事件だったのでしょうか。

えり 「源頼朝が開いた鎌倉幕府。その成立を陰で支えた人物がいます。『北条時政(ときまさ)』という御家人です。この時政以降、北条氏が台頭して、政治を動かすことになるんです。」

北条氏の台頭

北条時政は、静岡県韮山(にらやま)、現在の伊豆の国市の地方役人でした。
北条家は領地も家来も少ない弱小武士団。
そこへ、平治の乱で平清盛に敗れた源義朝の息子、14歳の頼朝が罪人として流されてきたのです。
頼朝は、この地で時政の娘「政子(まさこ)」と出会います。

時政の反対を押し切り、やがて2人は結婚します。
当時、都では平氏の一族が政治を支配。
しかし、平氏の強引なやり方に、不満が高まっていました。

そんなとき、伊豆にいた頼朝のもとに命令書が届けられます。

「平氏を倒せ」

後白河法皇の子、以仁王が出した命令でした。

1180年、頼朝は平氏を討つことを決意します。
北条時政は頼朝を全力で支え、共に戦いました。
5年にわたる源平合戦の末、平氏は滅亡。

北条氏の台頭は、ここから始まるのです。


えり 「頼朝は、将軍となって7年後、落馬して急死してしまうんです。夫が亡くなったあと、政子や時政はどのように幕府と関わっていくのでしょうか。」

頼朝と政子が逢瀬を重ねた伊豆山神社。
ここに、政子が頼朝の死を悼んで奉納した曼荼羅(まんだら)が残されています。
頼朝の死後、政子は出家し、尼となりました。
そのとき切り落とした髪が、黒い梵字(ぼんじ)に細かく編み込まれているといいます。
政子はどんな思いを、この曼荼羅に込めたのでしょうか。

頼朝の後を継いで将軍となったのは、長男の「頼家(よりいえ)」
ここで、北条氏にとって気がかりな問題が生じました。
頼家は、側近として比企能員(ひきよしかず)を信頼し、重く用いていました。
比企氏は北条氏よりも、ずっと大きな一族です。
しかも、頼家の妻は比企能員の娘。
もし、頼家の子どもが政権を取った場合、外戚、つまり母方の親族である比企氏が、大きな力を持つことになるのです。

そこで1203年、北条時政は政子と計って、比企能員一族を滅ぼしました。
健康を害していた頼家も引退させて、伊豆の修禅寺に押し込めてしまいます。
代わって3代将軍となったのは、頼家の弟「実朝(さねとも)」でした。

えり 「時政と政子は、梶原景時(かじわらかげとき)、畠山重忠(はたけやましげただ)、和田義盛(わだよしもり)など、有力な御家人たちを次々と殺害していくの。2代将軍の頼家は、将軍を引退させられたあとに暗殺されてしまうんだけど、その殺害にも時政と政子が関わっていたんじゃないかって言われているんです。」

詩乃 「頼家のあとに将軍になった実朝は、北条家にとっては都合のいい人物だったの?」

えり 「そう。この実朝は『母が政子、乳母は政子の妹』という、いわば北条家のサラブレッドなの。」

詩乃 「じゃあ、実朝が将軍になれば、北条家は安泰ってわけなんだね。」

えり 「ところが、この実朝が歴史を揺るがす大事件、『承久の乱』の引き金となるんです。」

承久の乱

北条時政は、3代将軍・実朝を補佐する「執権」と呼ばれる地位に就いていました。
しかし1205年、時政の息子「義時(よしとき)」が、父からその地位を奪い取ります。
その頃、京都で政治を担っていたのは「後鳥羽上皇(ごとばじょうこう)」
武芸に優れ、歌人としても一流。
文武ともに卓越した能力の持ち主でした。
和歌に秀でていた実朝とは、良好な関係を保っていました。

ところが1219年、実朝が頼家の息子・公暁(くぎょう)によって暗殺されてしまいます。
すると、義時を中心に勢力を拡大する北条氏一族と、後鳥羽上皇の関係が悪化。
対立を深めていきます。

そして1221年。
後鳥羽上皇は、全国の武士に「北条義時追討(ついとう)」、“義時を討て”という命令を出しました。
「承久の乱」の始まりです。

その知らせを受けた幕府の御家人たちは、どうすべきか迷っていました。
このとき御家人たちを説得したのが、政子です。

「頼朝公のおかげで、みなの官位は上がり収入も増えました。その御恩は、山よりも高く海よりも深いものです。今こそ、朝廷の中の悪い貴族たちを退け、三代にわたる将軍が築いたものを守り通すときです。」

政子の言葉に、御家人たちは奮いたち、京に攻め込みました。
朝廷側をはるかに超えた数の武士たち。
幕府軍は、わずか1か月で後鳥羽上皇を打ち破り、承久の乱は幕を閉じたのです。

悠也 「朝廷の方が、地位が上だし力がありそうなのに、なんで幕府の方にたくさんの兵士が集まったんだろう?」

えり 「そこ、気になるよね?今回も本郷和人先生をお招きしました!先生、朝廷軍と幕府軍では、どれくらいの兵力差があったんですか?」

本郷先生 「幕府が動員した軍勢というのは、朝廷が動かせた軍勢のおよそ10倍だったんじゃないかと僕は計算しています。」

悠也 「どうして幕府は、それだけの兵力を集めることができたんでしょうか?」

本郷先生 「有名な話なんだけど、政子の見事な演説が御家人の心をひとつにしたから、ということは言われていますね。もっと大きな話で言うと、幕府と朝廷側には、自分たちの国に対する見方の違いがあったんじゃないかと言われているんですね。後鳥羽上皇が目指したのは、上皇や天皇が頂点にいて、その下に貴族がいて、それから神社やお寺があって、それと並ぶような形で武士がいる。だから武士はあくまでも上皇や天皇の下にいて、その命令を聞く存在、というふうに考えていた。ところが源頼朝や北条義時が目指したのは『在地領主による在地領主のための政権』、つまり自立する武士の政権だった。武士は自分の土地、所領を持っていて、そこに住む人を治めてこそ、存在意義があるわけです。だから『一所懸命』、自分の所領を、命を賭けて守り、自分たちの所領を守ってくれるであろう幕府のために戦った。」

えり 「今は、がんばることを『一生懸命』と言いますけども、この『一所懸命』が由来だったんですね。先生、この承久の乱は歴史的に見ると、どんな意味を持つ事件だったのでしょうか?」

本郷先生 「武士が朝廷という権威に立ち向かった、ほかの時代には類を見ない戦いだったんです。この事件が、このあとの室町・戦国・江戸へと続く武家の世の礎になったんですね。」

詩乃 「承久の乱の後、政治の実権は北条氏が握っていったんですか?」

えり 「将軍の補佐役である『執権』を世襲制にして、北条家が代々引き継いでいったんです。」

本郷先生 「北条氏は、名目的には、幕府のナンバー2なんですよ。上に将軍がいるから。だけど、その将軍をお飾りにして、実質的にはナンバー1という地位を不動のものにしたんです。」

北条氏は、さらにさまざまな制度を整えていきました。

執権政治の確立

朝廷軍を撃破した幕府は、京都に「六波羅探題(ろくはらたんだい)」と呼ばれる役職を置き、西国の御家人を統括しました。
六波羅探題には、北条氏一門の有力者が任命されました。

3代執権の「北条泰時(やすとき)」の時代になると、執権を補佐する「連署(れんしょ)」を新たに設置。
さらに御家人の中から「評定衆(ひょうじょうしゅう)」を十名あまり選び、政治に参加させました。
評定衆は、執権、連署とともに、話し合いによって、政治の決定と裁判の判決を行いました。
そして1232年には、「御成敗式目/貞永式目(ごせいばいしきもく/じょうえいしきもく)」を定めました。
殺人や文書の偽造の罪、財産の相続についてなど、紛争解決の細かなルールを示した日本初の武家の法典です。

えり 「御成敗式目は、全部で51か条あったんだけど、悪口の禁止とか、不倫の禁止とか、すごい細かいことが書かれていたんだって。」

詩乃 「北条氏って邪魔者を殺害するだけじゃなくて、ちゃんと社会の体制も整えてたってことですね。」

本郷先生 「北条氏は、武力での戦いでは自分たちは弱いことを知っているわけです。けれども、文書を使った行政『文書行政』に長けていたんですね。他者の意見や客観的な法を尊重する泰時の政治姿勢。これは御家人たちみんなに支持されて、いわゆる『執権政治』が確立しました。御成敗式目は、幕府の勢力範囲のみで用いられるっていうのが、一応の原則なんです。だけれども、幕府の力がどんどん強くなっていく。そうすると、全国に知られていって、みんながその法令を使うようになる。で、それが室町幕府にも引き継がれていった、ということになるんですね。」

日本史なるほど・おた話〜「吾妻鏡」を読み解く

えり 「今回のテーマ『吾妻鏡(あづまかがみ)』について、本郷先生にお話を伺いましょう。」

本郷先生 「吾妻鏡っていうのは、鎌倉時代後期に成立した、幕府が作った歴史書なんです。今回取り上げた時代について書かれていて、僕たち歴史研究者にとってみると、一番大切な歴史史料なんです。ただし、ひとつだけ気にしておかなくてはいけないのは、北条氏の検閲が入っているということなんですね。」

詩乃 「北条氏の手が加えられていると考えられている部分って、どんなところなんですか?」

本郷先生 「例えば、今回取り上げた比企能員の乱。なぜ北条は比企能員を殺したのか。
吾妻鏡には、『頼家と能員が“時政のやつ、邪魔だなあ。時政を討ってしまえ”と密談をしている声を、政子が障子を隔てて聞いていた。“これはお父さんがやられてしまう”ということで、先回りして比企能員を討った。だからそもそも悪いのは比企なんだ』って。」

悠也 「何か、できすぎているような気がするよね。」

本郷先生 「史料としてもほかにないんですよ、この時代を描いているのって。だからとても価値があるんだけど、書かれている文章にどんな裏があるかっていうことを、きちんと検証しながら読んでいかなくちゃいけない。」


それでは次回もお楽しみに!

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