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※この番組は、前年度の再放送です。

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今回の学習

第11回 第2章 武家社会の形成と生活文化のめばえ

鎌倉幕府の誕生

  • 監修講師:東京大学史料編纂所教授 本郷和人
学習ポイント学習ポイント

鎌倉幕府の誕生

歴史を語り合う茶屋、歴カフェ。
日本史が大好きな店員、小日向えりさんのもと、歴史好きの平野詩乃さん、市瀬悠也さんが集まってきました。
教えてくださるのは、本郷和人先生です。

今回取り上げる時代は、12世紀末から始まる鎌倉時代です。
貴族社会が終焉を迎え、武士が台頭。
そして、源頼朝が東国の地・鎌倉に幕府という本格的な武士政権をつくります。
今回のテーマ「鎌倉幕府の誕生」に迫る3つのポイントは「幕府の成立」「将軍と御家人」「鎌倉新仏教と鎌倉文化」です。
初めての幕府による政治。
頼朝は、どのようにして武士による政権をつくりあげたのでしょうか。

えり 「ここで問題です。鎌倉幕府は、いつ成立したでしょうか?」

詩乃 「鎌倉幕府、1192年です。」

えり 「ご明察!と言いたいところなんですが、必ずしもそうではないというのが、学者のみなさんのご意見らしいんですね。」

本郷先生 「いろんな説がありましてね、それぞれ納得するところがあるんです。」

幕府の成立

「源頼朝(みなもとのよりとも)」は、富士川(ふじがわ)の戦いで平氏軍に勝利した後、1180年、鎌倉に拠点を構え「鎌倉殿(かまくらどの)」と呼ばれました。
頼朝は、鎌倉に軍事・警察の機能をつかさどる「侍所(さむらいどころ)」を設け、南関東と東海道東部を支配しました。
1183年10月、頼朝は後白河法皇との交渉の末、東国に対する支配権を朝廷から承認されます。
頼朝は平氏追討(ついとう)目前の1184年、国の基盤整備をさらにすすめます。
財政を担当する機関「公文所(くもんじょ)」、そして裁判機関の「問注所(もんちゅうじょ)」を設置しました。
1185年、壇の浦の戦いで平氏が滅亡すると、後白河法皇は義経からの要請により、頼朝を討ちとろうと画策します。
しかし、逆に頼朝から圧力を受けた法皇は、追討令を撤回するとともに、「守護(しゅご)・地頭(じとう)」を任命する権利を頼朝に認めます。
守護は、治安維持のため軍事・警察権を行使する地方官です。
国ごとにひとりずつ、東国出身の有力な武士などが任命されました。
地頭は、頼朝を主君とし、臣下となった武士たちが任命されました。
各国の荘園や公領に設置され、その任務は土地の管理や年貢の徴収、治安維持などでした。

1190年11月、頼朝は京都に上り右近衛大将(うこのえたいしょう)に任命されます。
1192年、後白河法皇が亡くなると、源頼朝は「征夷大将軍(せいいたいしょうぐん)」に任命されます。
頼朝が将軍に就任したことで名実ともに「鎌倉幕府」が成立しました。

えり 「先生、鎌倉幕府の成立時期は、いったいいつなんですか?」

本郷先生 「歴史研究者の間でもずっと議論されてきていることですが、近年、成立時期として6つの説があります。どれを鎌倉幕府成立とするかは、“幕府って何?”という『幕府観』をどうとらえるかで、変わってくるわけですね。」

鎌倉幕府成立時期6説
(1)1180(治承4)年末:頼朝が鎌倉に居を構え侍所を設け、南関東など実質的支配に成功したとき
(2)1183(寿永2)年10月:頼朝の東国支配権が朝廷から事実上の承認を受けたとき
(3)1184(元暦元)年10月:鎌倉に公文所と問注所が設けられたとき
(4)1185(文治元)年11月:頼朝が守護・地頭の任命権などを獲得したとき
(5)1190(建久元)年11月:頼朝が右近衛大将に任命されたとき
(6)1192(建久3)年7月:頼朝が征夷大将軍に任命されたとき

本郷先生 「例えば、(1)から(4)までは軍事政権としての幕府が成立する過程を問題にしているわけです。特に(4)の守護・地頭の任命権っていうのは武士を支配する最重要項目なわけですね。だからこのときを幕府成立と考える学者が、今はわりと多いんです。」

えり 「たしかに、“いいくに(1192)”つくろうではなくて“いいはこ(1185)”って、よく聞きますよね。」

本郷先生 「かたや、幕府の基盤というのは東国の支配政権としての性格を強調すべきだという学者もいます。つまり、軍事力による実力支配を重く見る。そうなると南関東など実質的支配に成功したときである(1)ということになるわけです。(6)は、室町幕府の足利尊氏、江戸幕府の徳川家康、どちらも征夷大将軍に任命されて、そのときに幕府ができた。これがずっと通説だったんです。だから、いまでも(6)がしっくりくるという人が多いかもしれない。」

将軍と御家人

鎌倉時代、守護に任命されたのは東国の武士たちでした。
頼朝にとって、東国の武士たちは重要な存在だったのです。
そんな東国の武士たちが命をかけて守っていたものが、土地です。
しかし、西国に拠点をおく平氏の勢力は、全盛期になると東国にも及んでいました。
多くの武士が自分たちの土地を脅かされていたのです。
そんな中、平氏打倒の際、頼朝は多くの武士から支持を得ます。
鎌倉時代の歴史書「吾妻鏡(あづまかがみ)」に頼朝が挙兵のときに出した宣言が書かれています。
「東国諸国の土地は荘園も公有地もみな、自分が支配することを朝廷によって認められている」
つまり、頼朝は武士たちに「東国の土地は私が保証する」と誓うことで、武士たちの心をつかんでいったのです。

頼朝は京都ではなく、鎌倉を拠点にしました。
南は海に面し、三方を丘陵で囲まれた攻めにくい土地でした。
現在の鎌倉市内、大蔵御所跡(おおくらごしょあと)。
頼朝はここに御所を作り、公文所、問注所を設置して幕府の政務機能を集中させました。

頼朝は1192年、朝廷から征夷大将軍に任命されます。
この将軍に仕える家来のことを特に「御家人(ごけにん)」と呼びました。
頼朝は御家人に対して、土地の支配を保証したり、戦の功績に応じて土地を与えたりしました。
これを「御恩(ごおん)」といいます。
御家人はこの御恩に対して、戦(いくさ)があれば戦場におもむき命がけで戦い、朝廷や幕府の警護にもあたりました。
これが「奉公(ほうこう)」です。

このように、「ご恩」と「奉公」から成る主従関係を基礎とした社会制度が「封建(ほうけん)制度」です。

本郷先生 「土地の支配を保証することを『本領安堵(ほんりょうあんど)』といいます。そして、戦で功績をたてたときに新しい土地の支配権を与えることを『新恩給与(しんおんきゅうよ)』といいます。土地を間にはさんだ契約的な主従関係、この“契約的な”も非常に大事で、要するに、主人が主人らしいことをしない場合、家来は主人を裏切っても、新しい主人を求めても、文句を言われなかったんです。江戸時代の主従関係とはちょっと違う。」

鎌倉新仏教と鎌倉文化

平安後期から鎌倉時代にかけて、保元・平治の乱、源平の争乱、大飢饉など社会不安が増し、人々は心のよりどころを求めていました。
そんな人々の支えとなったのが新しい仏教「鎌倉仏教」です。

それまでの仏教は戒律や学問を中心としていて、武士や庶民にとってはとても難解でした。
鎌倉仏教は困難な修行は必要なく、また、政治権力に対して自立していました。

浄土宗(じょうどしゅう)
「法然(ほうねん)」は、一心に念仏を唱えれば極楽浄土(ごくらくじょうど)に往生(おうじょう)できると説き、貴族から庶民まで広く信仰されました。

臨済宗(りんざいしゅう)
中国・南宋から帰国した「栄西(えいさい)」が伝えた禅宗の一つ。
座禅を組んで精神統一をはかり、自らの力で悟りをえようとするもので、上流武士の間に広まりました。

浄土真宗(じょうどしんしゅう)
法然の弟子「親鸞(しんらん)」は阿弥陀如来(あみだにょらい)の救いを信じる心を強調し、東国の武士や農民に受け入れられました。

そのほかにも、「道元(どうげん)」による「曹洞宗(そうとうしゅう)」「日蓮(にちれん)
による「日蓮宗(にちれんしゅう)」「一遍(いっぺん)」による「時宗(じしゅう)」が、広く人々に受け入れられました。

鎌倉時代は仏教以外にも、新たな文化が生まれています。
鎌倉中期以降、禅宗がさかんになると中国・宋の禅宗寺院の建築様式が伝えられ、伝統的な和洋建築様式にも影響を与えました。
鎌倉の「建長寺(けんちょうじ)」「円覚寺(えんがくじ)」など、大きな寺院が建立されます。
また、奈良では平氏の焼き討ちで焼失した興福寺や東大寺が再建されました。
東大寺をはじめとした寺院には、今も多くの写実的な仏像が残されています。
東大寺南大門の金剛力士像(こんごうりきしぞう)は、「運慶(うんけい)・快慶(かいけい)」らが手がけました。

この時期、発達した文学に、簡潔な文体で書かれた「軍記物(ぐんきもの)」があります。
「平家物語(へいけものがたり)」は平氏の繁栄と没落をえがいた代表的作品で、琵琶法師(びわほうし)によって語り伝えられました。
そのほかにも、随筆では、「吉田兼好(よしだけんこう)」「徒然草(つれづれぐさ)」「鴨長明(かものちょうめい)」「方丈記(ほうじょうき)」、和歌の分野では後鳥羽上皇(ごとばじょうこう)が、「藤原定家(ふじわらのさだいえ)」らに編集させた「新古今和歌集(しんこきんわかしゅう)」などがあります。

詩乃 「東大寺の金剛力士像のような力強い彫刻があるかと思えば、方丈記や徒然草みたいに随筆文学があって、硬いものと軟らかいものが混在しているような印象があった。」

本郷先生 「そうですね。鎌倉文化は、従来の公家(貴族)文化の側面がある。一方で、武士たちが社会に登場してきて、彼らの生活から新たにおこった文化、そういう側面もある。だから、硬いものと軟らかいものという印象になるのかもしれません」

日本史なるほど・おた話〜武士の年収・武士の暮らし

日本史のおもしろくてためになる話。
今回は、「鎌倉時代の武士の年収」です。

えり 「本題に入る前に、当時の武士は、そもそもどんな暮らしをしていたのでしょうか?」

本郷先生 「一般的な東国の武士の暮らしを例にとると、まず、住んでいる家は質素です。板ぶきで、簡単なつくり。それから農民を使って農業を営んで、所領を経営している。だけど、これも要するに武士が自分で農業の最前線に立っているわけですよ。だから、『すき』や『くわ』を持っていた武士がいてもおかしくない。それから敷地内には広い馬場があります。馬場というのは馬を走らせるためのもの。それからその馬を使った『流鏑馬(やぶさめ)』、弓を習うための『笠懸(かさがけ)』など、武芸の練習をしていたということになります。」

そんな質素な生活を送っていたという鎌倉の武士。
その中でも将軍につかえた御家人の年収を、本郷先生にうかがいます。

本郷先生 「御家人というのは公務員なんです。相当なエリート公務員。全国に2千人ぐらいしかいない。何を(年収の)根拠にしたかっていうと『新補率法(しんぽりっぽう)』という取り決めを使いました。新補率法とは何かというと、承久の乱で後鳥羽上皇側の荘園を幕府は没収し、幕府の御家人たちに与えた。そのときに、たくさんの税金をとれる荘園、ちょっとしかとれない荘園、いろいろあったんですね。そこで、幕府が最低ラインっていうのを決めたんです。それが新補率法。そこに書いてあるものを計算すると、お米でだいたいどれぐらいの税金がとれたかっていうのが計算できるんですね。広さが二百町(東京ドーム約42個)ぐらいの荘園、その御家人クラスで計算をしてみると、だいたい2千万円の収入があったのではないかと。でも、貴族の方がさすがに多いんです。ある研究者の計算によると、中級ぐらいの貴族で約2億円はもらっています。おおまかな試算なんですが、経済的にはまだまだ鎌倉と京都で大きな格差があった、ということが言えるんです。」


それでは次回もお楽しみに!

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