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今回の学習

第10回 第2章 武家社会の形成と生活文化のめばえ

平氏政権の登場

  • 監修講師:東京大学史料編纂所教授 本郷和人
学習ポイント学習ポイント

平氏政権の登場

歴史を語り合う茶屋、歴カフェ。
日本史が大好きな店員、小日向えりさんのもと、歴史好きの平野詩乃さん、市瀬悠也さんが集まってきました。
教えてくださるのは、本郷和人先生です。


今回取り上げる時代は平安時代末期、12世紀後半です。
朝廷内の権力争いを発端に平氏・源氏といった武士が台頭し、ついには武士政権が誕生します。
今回のテーマ「平氏政権の登場」に迫る3つのポイントは「保元の乱・平治の乱」「平氏政権」「源平の争乱」です。
平氏が武士として初めて政治の頂点に立ちながらも、没落していく時代。
その歴史的な転換期をひもといていきましょう。

保元の乱・平治の乱

本郷先生 「当時の院政の状況は、白河(しらかわ)天皇が上皇になって、長く院政を行っていたんです。その白河上皇を継いだのが孫の鳥羽(とば)上皇。鳥羽上皇の息子が崇徳(すとく)上皇と、後白河(ごしらかわ)天皇なんですけれども、あまり仲がよくない。特に、この2人は仲が悪かったんです。」

平安時代の末期、朝廷では後白河天皇、その兄・崇徳上皇の上で父・鳥羽法皇が院政を敷いていました。
1156年、その鳥羽法皇が亡くなると、かわって院政を行おうとしたのが崇徳上皇でした。
しかし、弟の後白河天皇が異を唱え、政治の主導権をめぐり対立が深まります。
崇徳上皇は左大臣・藤原頼長(ふじわらのよりなが)と、対して後白河天皇は藤原忠通(ただみち)と手を組みます。
頂点に立つ2人の権力争い、その下で摂関家も上皇方、天皇方に分かれて対立します。
この問題に決着をつけるために、貴族たちは武士の力を利用します。
崇徳上皇は源為義(みなもとのためよし)、平忠正(たいらのただまさ)らを、一方で後白河天皇方は「平清盛(きよもり)」「源義朝(よしとも)」らを味方につけます。
そんな中、後白河天皇方は崇徳上皇方の御所に夜討ちをかけ、先制攻撃をしかけました。
「保元(ほうげん)の乱」の始まりです。

乱は短時間で終わり、後白河天皇方が圧勝しました。
京都を舞台に合戦が行われたこと、そして貴族の政治の争いの行方が武士の力で決められたことは、この保元の乱が初めてでした。
武士の時代が到来したことを実感させた出来事でした。
この乱は、貴族たちに大きな衝撃を与えます。
摂関家出身の僧・慈円(じえん)は、自身の著書で「これ以後、武者(むさ)の世になった」と記しています。

保元の乱の後、政治の実権を握ったのは、平清盛とその協力者・藤原通憲(みちのり)でした。
通憲は、荘園の整理や僧兵の取り締まりの強化など、次々と政策を打ち出しますが、その積極的な姿勢は多くの政敵をつくることになります。
そのひとり、藤原信頼(のぶより)は、源氏の棟梁となった源義朝らを味方に引き入れ、朝廷に対してクーデターともいうべき行動に出ます。

保元の乱から3年後、都で再び権力闘争が起こります。
それは、1159年、政権の中枢にいた平清盛が熊野詣(くまのもうで)に出かけたときのこと。
藤原信頼らの軍勢は、清盛が都を留守にしていたすきに、挙兵。
藤原通憲一族の屋敷を襲います。
「平治(へいじ)の乱」です。
通憲は京都から逃げますが、追っ手に発見され自決します。
また、源義朝は後白河上皇らの身柄をおさえ、幽閉・軟禁します。
そんなおり、平清盛が京都に帰ってきます。
清盛は軍勢を整えて反撃し、後白河上皇らを奪還、そして勝利します。

その結果、信頼は処刑、義朝も逃げる途中で討たれ、義朝の嫡男(ちゃくなん)「源頼朝(よりとも)」は伊豆に流されます。

こうして、保元の乱・平治の乱の結果、武士の力は貴族社会に浸透しました。
そして、武士をたばねる「棟梁(とうりょう)」となった平清盛の地位と権力は頂点に達します。
1167年、清盛は「後白河法皇(ごしらかわほうおう)」の信任を得て、武士として初めて「太政大臣(だいじょうだいじん)」となりました。 平氏の栄華の始まりです。

悠也 「平清盛は他の武士に比べて、どれぐらい、飛び抜けた存在だったんですか?」

本郷先生 「貴族社会の中で武士が昇進していくときは、国司でおしまいだったんです。国司というのは、今でいえば県知事ですね。つまり、地方の政治を行うのが精一杯。ところが平清盛は中央の政治にも携わり、それ以上に太政大臣、貴族の頂点に立った。これはもう、本当に画期的なことなんですよ。」

平氏政権

平清盛は、娘を天皇の妃(きさき)とし、その子・安徳(あんとく)天皇が即位すると「外戚(がいせき)」となって権勢を誇ります。
数多くの知行国(ちぎょうこく)と500あまりの荘園を所有するなど、その政権の経済的基盤は摂関家の構図に酷似していました。
武力を基盤とする政権でありながら、貴族的性格も強くおびていました。
清盛は京都の六波羅(ろくはら)に邸宅をかまえたので、この政権を「六波羅政権」とも呼びます。
この平氏政権に危機感を抱いたのが、後白河法皇です。
1177年、後白河法皇の近臣らが平氏打倒を計画しますが、清盛に知られ、失敗に終わります。
さらに1179年、法皇を中心とする反平氏の動きが表面化します。
そこで、清盛は法皇を御所に閉じこめ、関白以下多くの貴族の官職をうばうという強硬手段に出ました。
こうして院政は停止し、清盛自ら政権を握ったのです。
ここに日本で初めて、武士が主導する政権が誕生しました。

詩乃 「平氏政権が武力以外の面で際立って繁栄したのは、どんな理由があるんですか?」

本郷先生 「経済力です。お金をいっぱい持っていたということなんです。当時の平氏政権は中国大陸の王朝である宋と貿易をしたんですよ。これが日宋交易(にっそうぼうえき)です。」

本郷先生 「おもしろいエピソードがあります。当時は船が貧弱だったんです。重りがないと、ひっくり返っちゃうんですよ。それで船の重りとして、日本から中国大陸に行くときに何を置いたかっていうと、木材なんです。船を向こうに持っていって、木材も当然売っちゃうんです。そうなると、中国から日本に帰ってくるときは重りがなくなるでしょ?そのときに、銭を敷き詰めたんです。そうなると、日本に大量の銭が持ち込まれるわけです。すると、みんな当然“これ、何?”って聞くわけじゃないですか。“これは銭だよ。こうやって使うんだよ。” “便利だね”って話になって、日本に貨幣経済がすごい勢いで浸透していったんです。」

えり 「これまでも和同開珎(わどうかいちん)とか、通貨はありましたよね?」

本郷先生 「それは、京都とその周辺でしか使われなかった。日本列島全体で使われたわけじゃなかったんです。」

本郷先生 「さらにね、政治的な意味で言うと、娘を天皇家に嫁(とつ)がせて外戚になった。これなんかもう、完全に藤原氏と一緒ですね。」

ただ、平家の栄華も長くは続きません。

源平の争乱

平清盛には娘・徳子(とくこ)と高倉(たかくら)天皇との間に生まれた孫がいました。
1180年、清盛はその孫を安徳天皇として即位させます。
このことで、天皇になる可能性を失った人物がいました。
後白河法皇の子・以仁王(もちひとおう)です。
この以仁王を擁して平氏打倒に立ち上がったのが源氏の中で唯一、中央政界に留まっていた「源頼政(よりまさ)」でした。
以仁王と頼政の呼びかけで挙兵したのが、源頼朝や木曾の「源義仲(よしなか)」です。

こうして治承(じしょう)・寿永(じゅえい)の内乱が始まりました。
戦いは全国に広がり、以降5年にわたり続きます。

転機となった戦いがありました。
清盛は頼朝を攻めるため富士川(ふじがわ)に大軍を送ります。
しかし、襲撃の気配を感じて水鳥が飛び立ち、その音に驚いた平氏の大軍は逃げてしまいます。
戦いに勝利した頼朝は、周囲の武士のすすめで京都には向かわず関東の平定を優先します。
一方、平氏は京都に戻り、以仁王に味方した南都に出兵し、興福寺や東大寺大仏殿などを焼き払うのです。

しかし、このころから平氏政権は急速に衰退へと向かいます。
平清盛が亡くなり、さらに大飢饉(ききん)が発生するなど、深刻な打撃が政権を襲いました。

そして1183年、源義仲は北陸の倶利伽羅峠(くりからとうげ)で平氏を迎え撃ち、撃破。
その後、「源義経(よしつね)」らの軍勢が一の谷(いちのたに)の戦い、屋島(やしま)の戦いで勝利、平氏を「壇の浦(だんのうら)」に追いつめます。
1185年3月、決戦の舞台は本州と九州のあいだにある関門海峡・壇の浦でした。
激しくぶつかりあう源氏と平氏、源平最後の合戦となったのです。
戦いの末、平氏の軍勢は総崩れとなり、清盛の妻は幼い安徳天皇を抱いて海に身を投げ、平氏一門も次々と海に沈んで行きました。
こうして壇の浦の戦いで敗れた平氏は、安徳天皇とともにほろびたのです。

悠也 「源氏が勝利して平氏が負けた。その差って、どこにあったんでしょうか?」

本郷先生 「これは単に“源氏と平氏の勢力争い”というものではありません。全国に争いが広がった理由のひとつに、自分たちの所領、土地の支配権を確固たるものにしようとする、地方の武士など在地領主の思惑があるわけです。そうした在地領主たちの思いにこたえたのが源氏だった。つまり、源氏と平氏の勝敗というのは在地領主がどっちを選んだか、ということになるのかもしれません。」

日本史なるほどおた話〜なぜ頼朝は生かされたのか?

えり 「頼朝は平治の乱で平氏につかまりましたが、なぜ処刑されずに伊豆へ流刑だけで済んだのでしょうか?」

本郷先生 「同じように敵対した藤原信頼は処刑されています。それから、頼朝の父親である源義朝も討たれています。」

本郷先生は、歴史研究者が考える3つの説があるといいます。

A説:清盛の継母が頼朝の助命を嘆願した
B説:貴族から死刑に対する反発があった
C説:清盛は伊豆を都に戻れない遠い地と思っていた

悠也 「なぜ、平氏は自分たちの勢力圏内である西国に、頼朝を流刑しなかったんですか?」

本郷先生 「頼朝の弟に希義(まれよし)っていう人がいたのね。平清盛は彼を土佐の国に流しているんです。今の高知県ですね。頼朝が平家を倒せって挙兵したときに、あっという間に殺されている。平氏のコントロールがよくきいていたんですね。だから、頼朝を西国に置いておけば、ちゃんと討つことができたかもしれない。そうなるとね、やっぱり清盛は頼朝のことを甘く見ていたのかもね。」


それでは次回もお楽しみに!

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