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Eテレ 毎週 水曜日 午前10:20〜10:40
※この番組は、前年度の再放送です。

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今回の学習

第7回 第1章 古代国家の形成と貴族文化の誕生

貴族社会と摂関政治

  • 監修講師:奈良大学教授 渡辺晃宏
学習ポイント学習ポイント

貴族社会と摂関政治

歴史を語り合う茶屋、歴カフェ。
日本史が大好きな店員、小日向えりさんのもと、歴史好きの平野詩乃さん、市瀬悠也さんが集まってきました。

今回の時代は、平安時代の中期。
9世紀半ばから11世紀半ばにかけてです。
この時代、日本の政治の仕組みを大きく変えたのが藤原氏です。
天皇を補佐する摂政・関白の地位に就いて、政治の実権を握りました。
また、唐や新羅(しらぎ)の滅亡によって、日本独自の文化・国風文化が発展しました。
今回のテーマにせまる3つのポイントは、「藤原氏の発展」「摂関政治のしくみ」「国風文化」
貴族が力を持つことでどんな世の中が生まれたのか、見ていきましょう。

えり 「この時代に生まれたのが、十二単(ひとえ)や、かな文字に代表される国風文化です。そして実は今も、私たちのすごく身近なところに、国風文化が残っているんですよ。例えば10円玉。どこかに国風文化を象徴するものが描かれています。」

悠也 「葉っぱが関係してるのかな?」

えり 「それは常盤木(ときわぎ)といって、常緑樹なんですって。国風文化とは、ちょっと関係がないんですよね。正解はこの建物、平等院鳳凰堂(びょうどういんほうおうどう)です!」

藤原氏の発展

平安時代の初め、嵯峨(さが)天皇の側近・蔵人頭(くろうどのとう)として信任を得たのが、「藤原冬嗣(ふじわらのふゆつぐ)」でした。
彼は、娘を皇太子の后(きさき)とすることに成功します。
藤原氏には4つの家系がありましたが、ここから藤原氏北家(ほっけ)の発展が始まったのです。
天皇の母方の親族を「外戚(がいせき)」といいます。
藤原氏北家は外戚の立場を利用して勢力を強め、天皇を補佐する「摂政(せっしょう)」「関白(かんぱく)」の地位を独占していきました。

中でも娘の力を借りて、栄華を極めたのが「藤原道長(みちなが)」でした。
まず彼は、長女の彰子(しょうし)が成長すると、一条(いちじょう)天皇の后にします。
やがて彰子は、2人の男の子を生みます。
しかし彼らが天皇になるまでには、まだ時間がかかります。
そこで道長は、二女の姸子(けんし)を三条(さんじょう)天皇の后にします。
姸子が産んだのは女の子。
3年後、彰子の息子が天皇に即位します。
すると道長は、幼い天皇を補佐するための摂政となります。
さらに将来を見据えて、下の娘の威子(いし)を後一条(ごさんじょう)天皇の后にするのです。
こうして次々と娘を天皇に嫁がせ、男の孫が生まれたら天皇にしました。
道長は天皇の身内として30年もの間、権力をふるい続けたのです。

道長はこんな歌を詠んでいます。

「この世は自分のための世の中のように思える。まるで満月に欠けたところがないように、満ち足りた思いがする。」

これが、同じ家から3人の皇后を出した道長の、偽らざる気持ちでした。
さらに道長の長男「頼通(よりみち)」も、3人の天皇の摂政・関白を務めました。
この道長・頼通の時代が、摂関家(せっかんけ)の絶頂のときだったのです。

えり 「藤原氏北家の基礎を固めた冬嗣。彼も娘を皇太子、後の天皇の后にして、生まれてきた息子を天皇にしてるよね。」

悠也 「代々受け継いできたやり方なんだね。」

えり 「長女の彰子は、一条天皇に嫁いだとき、一条天皇には既に定子(ていし)という中宮、奥さんがいました。そこで道長は無理やり、天皇の妻の定子を中宮から皇后という立場に変えて、娘の彰子を中宮として結婚させました。」

えり 「ところで、この時代の宮廷や貴族の邸宅で、主人に仕えた女性たちを女房(にょうぼう)といいます。女房は、今の女房と少し意味が違って、主人の秘書や家庭教師の役割を果たしていました。実は彰子の女房の中に、『紫式部(むらさきしきぶ)』がいたの。そして一方、皇后になった定子にも、ある有名な女房が仕えていました。誰だと思う?」

悠也 「紫式部が出てきたってことは、清少納言じゃない?」

えり 「ご明察!紫式部と同時ではないんだけど、その前に定子の女房をしていたのが『清少納言(せいしょうなごん)』で、彼女はそこで『枕草子(まくらのそうし)』を書いていたんです。さらにおもしろいのは、紫式部って清少納言にすごいライバル意識を持っていたんです。清少納言のことをこう言ってるの。」

「清少納言は、物知り顔で得意そうにしていた人でしたね。賢そうに漢字を書き散らしていたけれど、よく見ると、まだまだ不十分なところもいっぱいあって。」

さて、摂関政治のしくみとは、一体どんなものだったのでしょうか?

摂関政治のしくみ

「摂関政治」とは、摂政・関白が天皇の権限の一部を代行、あるいは補佐して、国政を運営していく政治体制のことです。
当時の貴族社会では、妊娠した妻は実家に戻って子どもを産み、子どもは妻の実家で育つのが一般的でした。
天皇家でもそれは同じでした。
そして、妻の父やおじが子どもを養育し、後見したため、彼ら外戚が天皇を補佐する摂関の地位に就くのは、常識化していたのです。
その代表が藤原氏北家と言えるでしょう。
摂関家は天皇の権威のもとで、官職の任命や位階(いかい)の昇進などに、自らの意向を強く反映させました。
政治は一部の貴族によって行われるようになり、積極的な政策を取るよりも、朝廷の行事や儀式を先例どおりに行うことが重視されていったのです。

えり 「実は、藤原道長の自筆の日記が残っています。世界最古の自筆本日記、『御堂関白記(みどうかんぱくき)』。具注暦(ぐちゅうれき)っていう暦の空欄に、その日にあったことをメモしていました。」

「元日節会(せちえ)は中止とした。(中略)拝礼はなかったが、公卿(くぎょう)たちを迎えたあと、両大臣に引出物があり、それぞれ馬1頭だった。ただし、家司(けいし)たちには、早朝に拝礼を行った。(後略)」

えり 「ところで、こうして天皇や一部の貴族だけに権力が集中しちゃったら、そこから外れた人たちはどうしたと思う?」

詩乃 「地方に行くとか…。」

えり 「ご明察!地方に赴任して行政を運営する、『受領(ずりょう)』と呼ばれる『国司(こくし)』の地位を目指しました。因幡国(いなばのくに)、今の鳥取県東部に、新しい受領が赴任するときの様子を描いた絵があります。そして次は国風文化についてです。」

国風文化

日本独自の「国風(こくふう)文化」は、なぜこの時期に発展したのでしょうか?
894年、遣唐大使「菅原道真(すがわらのみちざね)」の提言により、遣唐使派遣計画が停止。

907年には唐が滅亡し、渤海(ぼっかい)、新羅(しらぎ)も相次いで滅びました。
唐を中心とした「東アジア文化圏」の秩序が崩れ去ったのです。
こうして、これまで摂取してきた中国の文化を、日本の風土や日本人の考え方、生活に合わせて作り変えようとする気運が高まりました。
その結果生まれた10世紀以降、11世紀半ばころまでの日本の文化が国風文化です。

まずは貴族の衣服を見てみましょう。
男子は、正装として唐風の朝服(ちょうふく)を日本風に変えた「束帯(そくたい)」「衣冠(いかん)」を、通常には直衣(のうし)を着用しました。

女子は美しい「女房装束(にょうぼうしょうぞく)」、いわゆる十二単(じゅうにひとえ)が一般的でした。

続いて建築。
この時期に発達したのが、日本独特の住宅様式「寝殿造(しんでんづくり)」です。
これは、中央に寝殿と呼ばれる中心的な建物を設置し、その東西に対屋(たいのや)と呼ばれる付属的な建物を配して、それらを通路で結んだ建築です。

また、文学が大きく発展した背景には、「かな文字」の考案がありました。
安心の「安」の字からは、「あ」。
「波(は)」と読む字からは、ひらがなの「は」が生まれました。
こうした一字一音の文字の誕生によって、多くの日本人が自分の気持ちを書き記すことができるようになり、「かな文学」が盛んになっていったのです。
例えば「古今和歌集(こきんわかしゅう)」をはじめとする勅撰(ちょくせん)の和歌集が、次々に編集されました。
ほかにも、紫式部が光源氏を主人公として描いた恋愛長編小説「源氏物語(げんじものがたり)」、清少納言の随筆「枕草子」など、今も世界中で愛されている名作の数々が、この時代に登場したのです。

悠也さんと詩乃さんが訪れたのは、三重県の斎宮跡(さいくうあと)。
飛鳥時代から南北朝時代にかけて、天皇に代わって伊勢神宮に仕えた女性・斎王(さいおう)の宮殿があった場所です。
そこに建てられている施設に伺いました。
2人の平安時代の体験を担当してくださるのは堀田莉沙さんです。

詩乃さんは念願の十二単を着ることに。
最初はにこにこしていましたが、何枚も重ねて着ているうちに、その重さから無口に。

こうして平安装束に着替えてみた2人。
悠也さんも貴族の普段着、直衣がよく似合います。

続いて、貴族の遊びに挑戦。
盤双六(ばんすごろく)という日本最古のボードゲーム。
サイコロを振って、出た目の数だけ自分の2つの駒を動かして、早く全部の駒をゴールに入れた方の勝ちです。

続いては当時の貴族のスポーツ、蹴鞠(けまり)。

悠也 「あれ、軽くて軟らかいんですね。」

堀田さん 「鹿のおなかの革2枚を、馬の背中の革でつないだものです。」

日本史なるほど・おた話〜平安時代の庶民の暮らし

庶民の暮らしはどんな感じだったのでしょうか?
渡辺晃宏先生に伺います。

渡辺先生 「庶民のこの時期の生活を描いた珍しい資料があるので、今日はそれをご紹介したいと思います。『信貴山縁起(しぎさんえんぎ)絵巻』という絵巻物なんですね。尼さんがいて、手に数珠(じゅず)を持っていますね。みのをかぶっている人がたぶんこの人の従者で、家の中にこの家の住人らしい女性がいて、何か作業をしている。」

えり 「糸引いてるみたいな…、奥のものは何でしょう?」

渡辺先生 「紡錘車(ぼうすいしゃ)といって、繊維によりをかけて糸を作る作業をしてるんですね。」

悠也 「上の方に動物が見えるんですけど。」

渡辺先生 「猫ですね。描かれた猫としては日本でいちばん古いものだろうと言われています。『枕草子』なんかにも、出てくるんですよ。」

渡辺先生 「ここは道路なんですね。道路上に野良犬みたいな犬がいて、家の中から男の人が、手に棒を持って、『あっちへ行け!』みたいなことをやってる様子がわかりますよね。」

えり 「家の作りも、面白いですね。」

渡辺先生 「蔀(しとみ)と言って、日をよける、あるいは雨風や寒さをしのぐための装置が作られている。寝殿造などで見られるものと一緒です。」

渡辺先生 「地方では、受領(ずりょう)が重たい税をかけて、その下で地元の有力な農民たちが苦しんでいる。そんな受領に対抗するために、武力を持っていく、武士の発生につながるような状況が生まれてきていたわけですね。」


それでは次回もお楽しみに!

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