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Eテレ 毎週 金曜日 午後2:00〜2:20
※この番組は、前年度の再放送です。

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今回の学習

第6回 第1章 古代国家の形成と貴族文化の誕生

平安遷都と律令制の変容

  • 監修講師:奈良文化財研究所副所長 渡辺晃宏
学習ポイント学習ポイント

平安遷都と律令制の変容

歴史を語り合う茶屋、歴カフェ。
日本史が大好きな店員、小日向えりさんのもと、歴史好きの平野詩乃さん、市瀬悠也さんが集まってきました。

今回の時代は、平安時代初期です。
794年の平安遷都から鎌倉幕府が成立するまでのおよそ400年間を、平安時代といいます。
今回はその初めごろをとりあげます。
今回のテーマにせまる3つのポイントは、「平安遷都と政治の改革」「律令から格式へ」「弘仁・貞観文化」
400年続く平安時代の礎は、どのように形作られていったのでしょうか。

平安遷都と政治の改革

えり 「794年に都がうつされてから平安時代が始まりました。」

詩乃 「この前、平城宮跡に行って見てきたんだけど、都をうつすときは建物を解体して、それを移動させてたんだって。」

えり 「そんな大変なことをしてまで、どうして都をうつしたんでしょう?」

詩乃 「世の中が混乱してたよね。たしか、奈良時代の後半は。」

悠也 「でも奈良時代って、仏教で国を治めようとしてたはずだよね。それでも抑えきれない何かがあったのかな?」

えり 「その遷都を決めた人物は、『桓武(かんむ)天皇』。桓武天皇はいったい何を考えていたんでしょうか?」

鎮護(ちんご)国家の思想にもとづき、仏教の力で国を治めようとした奈良時代。
寺院は大きな影響力を持つようになります。
やがて、僧侶の中には、道鏡(どうきょう)のように、政治に直接関わるような者も現れるようになりました。
桓武天皇は寺院勢力が政治に影響を及ぼすのを嫌い、政治の立て直しを図るため、平城京を離れ、新たに都をつくることを決めました。

784年、「長岡京(ながおかきょう)」に遷都。
新しい都には私的寺院の建立を禁止し、仏教が政治に介入するのを阻止します。
しかし、都づくりの責任者・藤原種継(ふじわらのたねつぐ)が暗殺されたり、洪水の被害が度重なったりしたことで、長岡京は10年で廃止。
再び遷都が行われることになりました。
そして794年、都は「平安京(へいあんきょう)」にうつされました。

一方で、奈良時代末から、政府は東北地方にも律令制による支配を押し付けようとしていました。
これは、遷都と並ぶ大事業でした。

蝦夷(えみし)として区別されていた東北の人々は、中央からの律令制の押し付けに反発。
政府は武力で蝦夷を服従させようと、「坂上田村麻呂(さかのうえのたむらまろ)」を征夷大将軍(せいいたいしょうぐん)に任じ、東北に軍を派遣します。

そして、蝦夷の族長・阿弖流為(あてるい)を降伏させ、東北地方統治の拠点を、多賀城(たがじょう)から胆沢城(いさわじょう)に移します。
さらに翌年には、志波城(しわじょう)を築きました。
政府の東北遠征は、最終的に811年に区切りがつけられるまで、38年にも及びました。

悠也 「このあと平安時代が400年続くのって、なんでそんなに長くできたんでしょう?」

平安京に都が移って16年、「嵯峨(さが)天皇」の時代のこと。
810年に、「平城太上(へいぜいだいじょう)天皇の変」と呼ばれる事件が起きました。
退位した平城太上天皇が平城京に都を戻そうとし、嵯峨天皇と対立。
一時中央は混乱します。
しかし、この事件は嵯峨天皇側によって間もなく鎮められ、ようやく平安京は落ち着いたのです。

ここから、律令国家の最盛期が訪れます。
それを後押ししたのが、政治改革です。
実状に沿って、律令制を見直しました。
この平安時代初期の政治改革が、400年続く平安時代の基盤をつくったのです。

律令から格式へ

えり 「律令制ってどんなものだったか覚えていますか?」

詩乃 「国が決まりを作って、国民を支配していったんだよね。」

悠也 「律(りつ)が刑罰についてで、令(りょう)は政治とか経済とか、一般的な決まりについて書いてあったはず。」

えり 「律令制を見直すって、具体的にはどんなことを行っていったんでしょうか?実は、新たな官職を置いたんです。キーワードは令外官。」

「令外官(りょうげのかん)」とは、律令にはもともとなかった官職のこと。
新たな官職を置くことは、奈良時代にもありましたが、この時代には重要な令外官が置かれ、大きな政治改革となりました。
まずは、桓武天皇の時代に新設された、「勘解由使(かげゆし)」
国司(こくし)が交代する際に後任者は事務の引継ぎが完了したことを、解由状(げゆじょう)という文書にして前任者に渡していました。
しかし、不正が多かったため、この文書を厳しく検査する役職として新設されました。

嵯峨天皇の時代には、機密の漏えいを防ぐため、天皇の秘書官として「蔵人頭(くろうどのとう)」が、また、平安京内の警察や裁判を担当する「検非違使(けびいし)」も置かれました。
そして律令制は、律令を修正・補足するための法令「格(きゃく)」や、施行上の細則である「式(しき)」によって運用されるようになったのです。

悠也 「律令制を、格や式で運用するようになったんだよね。でもそれってどういうこと?」

えり 「ちょっと難しいよね。簡単に言うと、もともとあった法律が古くなったから、そのときの状況に合わせて修正したり補ったりして、現実に合わせて運用できるようにしたってことですね。」

政府はほかにも、6年ごとに行っていた班田を12年ごとにし、班田収授の励行を図ったり、年60日だった雑徭(ぞうよう)を半分に減らすなど、農民の負担を軽くする改革にも着手しました。
また、公民からの徴兵制を廃止し、郡司(ぐんじ)などの子弟や有力農民からの志願により、少数精鋭の「健児(こんでい)」を採用。
国府の警備や国内の治安維持にあたらせました。

弘仁・貞観文化

えり 「平安時代初期の文化を、『弘仁(こうにん)・貞観(じょうがん)文化』というんだけれども、いったいどんな文化だったと思いますか?」

詩乃 「もっといろんな国の文化が入ってきてどんどん華やかになっていったんじゃないかな?」

えり 「この時代は遣唐使の派遣が続いて、いろいろな国っていうよりは、唐の影響がより一層強くなったんです。」

遣唐使(けんとうし)の派遣が続いたこの時代、唐の文化を受け、新しい文化が発達しました。
唐に留学した2人の僧、「最澄(さいちょう)」「空海(くうかい)」が持ち帰った「密教(みっきょう)」という新しい仏教が大きな影響を与えます。
最澄がおこした「天台宗(てんだいしゅう)」と、空海がおこした「真言宗(しんごんしゅう)」は、どちらも密教を取り込み、その後の日本仏教の原点となっています。
弘仁・貞観文化の中心となったのは、この新しい仏教でした。

平安時代初期の文化にふれようと、悠也さんがやってきたのは、室生寺(むろうじ)。
奈良県・室生山(むろうさん)に広がる真言宗の寺院です。
飯田真士さんに案内していただきます。

室生寺は、平安時代初期につくられた山岳寺院。
密教では山にこもって修行をし、悟りを開くのを目指したことから、寺院は深い山中に建てられることが多かったのです。

平安時代初期の山岳寺院として唯一残る建物、室生寺金堂(こんどう)。
室生寺では、この時代の中で変化していく仏像の違いを見ることができます。
最も古いのが、弥勒菩薩像(みろくぼさつぞう)。
この時代の主流である、「一木造(いちぼくづくり)」の木彫り像です。

同じ時代でも少しあとになると、仏像の表情や体形に変化が見られます。
金堂に安置される仏像の中でもひときわ目を引くのが、国宝の釈迦如来像(しゃかにょらいぞう)。

そして、国宝・十一面観音像(じゅういちめんかんのんぞう)。
神秘的な表情が印象に残ります。
頭部にさまざまな仏の顔が十面、頭上にも仏の姿が見えます。

山岳寺院ならではの特徴が見られる、五重塔。
この時代の建築を代表する貴重な建物です。

日本史なるほど・おた話〜平城太上天皇の変を掘り下げる

今回も、おもしろくてためになるお話を、渡辺晃宏先生に伺います。

渡辺先生 「平安京遷都後に起きた平城太上天皇の変、この事件について少し掘り下げて考えてみたいと思います。平城太上天皇と嵯峨天皇は2人とも桓武天皇の息子です。お母さんも一緒で、平城太上天皇がお兄さん、嵯峨天皇が弟という関係になります。」

悠也 「平城天皇っていうのはどういった人だったんですか?」

渡辺先生 「桓武天皇の時代っていうのは2回にわたる遷都と、それから東北遠征っていう大きな事業をやった時代でした。その桓武天皇が亡くなったあと806年に天皇になり、そういった二大事業の後を受けて、いわば政治と経済の立て直しを図る。地方の行政を監督する官職を置いたり、中央では大規模な行政改革をやったりと、積極的な政策を進めますが、3年後の809年に病気になってしまって、突然弟の嵯峨天皇に位を譲るということになってしまいます。退位したあと、太上天皇となり平城宮に住むようになります。ところが翌年の810年、病気が治ったのかもしれませんが、突然都を平城京にうつすっていう命令を出すんです。」

詩乃 「そもそも天皇の位を譲った人が、天皇に代わって命令を出すことってできたんですか?」

渡辺先生 「このころまでの天皇を辞めた人を太上天皇といい、天皇と同じだけの権限を持っていたと考えられています。つまり、天皇の権力を分掌したということですが、天皇と太上天皇の個人的な力の関係によっては、政治的なもめごとも起きました。でも、平城太上天皇は都をうつそうとしただけで、別に嵯峨天皇に戦争を仕掛けたわけではないです。だから平城太上天皇の変という名前にしても、結局は勝ったほうの、嵯峨天皇の側からの論理での名称だってことになるわけですね。」

渡辺先生 「もしこの事件で平城太上天皇のほうが勝っていたとしたら、都は平城京に戻っていたということになりますし、それはともかくとして、この事件が決着を見るまでは、平安京がずっと続くっていう保証がなかったっていうことになります。この事件が終わって初めて、平安京はその後千年続く、千年の都になるという方向性が定まりました。」

それでは次回もお楽しみに!

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