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※この番組は、前年度の再放送です。

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今回の学習

第4回 第1章 古代国家の形成と貴族文化の誕生

飛鳥の朝廷と律令国家の形成

  • 監修講師:奈良文化財研究所副所長 渡辺晃宏
学習ポイント学習ポイント

飛鳥の朝廷と律令国家の形成

歴史を語り合う茶屋、歴カフェ。
日本史が大好きな店員、小日向えりさんのもと、歴史好きの平野詩乃さん、市瀬悠也さんが集まってきました。

今回とりあげる時代は、6世紀から8世紀初期です。
厩戸王(うまやどおう)の政治改革、遣隋使、大化の改新。
歴史のダイナミズムが大きなうねりとなった飛鳥時代から律令国家を形成する時代です。
今回のテーマに迫る3つのポイントは「遣隋使の派遣と国政の改革」「大化の改新」「律令国家のしくみ」

大帝国「隋」そして「唐」の影響を受け、国内でも権力争いが激化する中、日本社会はどう変化していったのでしょうか。

遣隋使の派遣と国政の改革

えり 「今回とりあげるのは、6世紀から8世紀の初めごろまで。このころに描かれたのが、飛鳥(あすか)美人の壁画。教科書にも載っている有名な壁画ですが、奈良の明日香村にある高松塚古墳(たかまつづかこふん)から見つかりました。華やかな女性の文化なんですが、一方で男社会は権力争いや暗殺といった人間模様が繰り広げられていて、歴史ファンからしたら、ドラマティックさも感じますね。」

奈良県明日香(あすか)地方を中心に、政治が動き始めます。
6世紀、大王を中心とする連合政権の大和王権は、朝鮮半島での影響力を強めたいと半島南部の「伽耶(かや)諸国」に兵士を送ります。
しかし、伽耶諸国が「百済(くだら)」「新羅(しらぎ)」の支配下に入ったことで、大和王権の勢力は大きく後退していきます。
さらに中国では「隋(ずい)」が全土を統一、大帝国を築き、朝鮮半島の北部の「高句麗(こうくり)」に攻撃を開始していました。
徐々に、大陸の見えない圧力が大和王権に近づいていました。

外交では厳しい立場となった大和王権でしたが、国内では地方の支配や中央の政治の場「朝廷(ちょうてい)」の機構を整備していきます。

592年、女帝「推古(すいこ)天皇」が即位し、その補佐として、おいの「厩戸王(うまやどおう)」が政権に参画、国政に乗り出します。
まず、隋からの侵略に対する危機感を募らせた厩戸王らの朝廷は、この難局の活路を外交に見いだします。
倭(わ)の五王以来、途絶えていた中国との正式な国交再開を求め、600年に厩戸王は最初の「遣隋使(けんずいし)」を派遣します。
しかし、隋の皇帝・文帝(ぶんてい)から国の政治などのあり方について非難を受け、国交を結ぶ事はできませんでした。

厩戸王は、この大帝国とわたりあうためには、権力を集中させる必要があると考え、国政の改革を始めます。

603年、「冠位十二階(かんいじゅうにかい)」を制定。
徳・仁など大小12の位に分けて、それぞれ色分けされた冠を授けました。
豪族の中から、氏(うじ)や姓(かばね)といった地位や血族に関係なく、才能や功績に応じて個人が昇進・昇級できるようにしようと考えたのです。

翌604年には「憲法十七条(けんぽうじゅうしちじょう)」を定めます。
「一に曰(いわ)く、和を以(も)って貴(たっと)しとなし」という書き出しから始まり、天皇を君主とする国家秩序の確立、豪族たちの官僚としての心構えなどを説いています。

こうして官僚制的な中央集権国家としての制度を整備したところで、厩戸王は607年に「小野妹子(おののいもこ)」らを第2回遣隋使として派遣することにしたのです。

えり 「小野妹子は、隋の皇帝に国書を持っていきました。その国書に『日出(い)づる処(ところ)の天子(てんし)、書を日没(ぼっ)する処の天子に致(いた)す』と書かれているんですが、隋の皇帝はこの国書を読んで怒りをあらわにした、と言われています。」

607年、第2回遣隋使として小野妹子らが派遣されました。
小野妹子は、隋の第2代皇帝・煬帝(ようだい)に国書を渡します。
この国書に「日出づる処の天子、書を日没する処の天子に致す」と書かれていたのです。
「天子」とは天下を治める人のこと。
「日出づる処の天子」というのは「倭国の大王」、「日没する処の天子」というのは「隋の煬帝」のことです。
皇帝・煬帝はこの国書に憤りを感じました。
煬帝にとって「天子」は隋の皇帝ただひとりであり、「倭国の大王」が「天子」を名乗ったことに強い不快感を示したのです。

しかし、朝鮮半島情勢の現状をふまえ、翌年、隋からの使者が初めて倭国を訪れ、対等な国交が始まります。
以降、遣隋使として中国に渡った「留学生(るがくしょう)」「学問僧」らの知識と経験は、国政改革に大きな役割を果たしていきます。

えり 「遣隋使を送った厩戸王なんですが、別の名前で呼ばれていました。知っていますか?」

詩乃 「聖徳太子だよね。」

えり 「大正解です。昔は『聖徳太子(しょうとくたいし)』って呼んでいて、私のころもそう習ったんですけれども、今は厩戸王で統一されています。なぜなら、聖徳太子の太子という称号は厩戸王本人がなくなったあとにつけられた称号だから。当時、聖徳太子というのはおかしいという理由なんだそうです。その聖徳太子こと、厩戸王がなくなったあと、日本の政治制度は大きな転換期を迎えていきます。」

大化の改新

618年、隋が滅び「唐(とう)」が建国されます。
唐では、「律令(りつりょう)」を基本とする中央集権的国家体制が発展します。
「律」とは刑罰についての規定、「令」は政治・経済など一般行政に関する規定のことです。

大和王権では、唐から帰国した遣唐使の留学生が唐の国家体制のしくみを伝えたことで、それまでの氏姓(しせい)制度をあらため、天皇を中心とした、より強力な中央集権国家をつくろうとする動きが高まります。

当時、人民と土地を支配していたのは豪族たちです。
中でも、厩戸王がこの世を去ったあと、最も権勢をふるったのが「蘇我蝦夷(そがのえみし)・入鹿(いるか)」親子でした。

天皇中心の中央集権的国家体制を目指す「中大兄皇子(なかのおおえのおうじ)」「中臣鎌足(なかとみのかまたり)」は、そんな蘇我氏を倒して政権を握ります。
「乙巳(いっし)の変」、645年のことです。

その後、孝徳(こうとく)天皇が即位、中大兄皇子は皇太子となり、日本初の元号を「大化(たいか)」と定めました。
翌年、新政府は「改新の詔(かいしんのみことのり)」を発表します。

「第一条、全国の土地、人民は、すべて国のものとする」

こうして律令にもとづく新しい国づくりへの改革が始まります。
これらの一連の政治改革を「大化の改新」といいます。

大化の改新により日本は、より中央集権的な「律令国家」へとすすんでいきます。

詩乃 「大化の改新の『大化』って、日本のいちばん最初の元号だったんだね。」

えり 「そうなんです。2019年は改元の年ですが、これまで250近くの元号があって、その最初が大化の改新の『大化』なんですね。そして、新たな国家体制・律令制につながっていくわけで、どんどん日本が変わっていく変革の時期です。」

律令国家のしくみ

660年、朝鮮半島の百済は唐と新羅の連合軍によって、滅ぼされます。
その滅亡した百済と同盟関係にあったことなどもあり、中大兄皇子は百済を復興させ朝鮮半島における倭国の優位性を復活させようと、朝鮮半島に大軍を送りました。

しかし、663年、「白村江(はくすきのえ)の戦い」で唐・新羅の連合軍に敗れてしまい、朝鮮半島から撤退します。
さらに、危機感を覚えた中大兄皇子は、都を近江(おうみ)にうつすとともに、唐・新羅からの攻撃に備え、西日本各地に山城(やまじろ)を築いていきます。

一方、百済が滅んだことで、多くの人が倭国に渡来してきました。
彼らは、木の板に文字を書いて記録を残す木簡(もっかん)を用いた行政運営など、百済のすすんだ文化を伝えました。
7世紀後半の木簡があります。このころには「天皇」という称号が使われていたことを示しています。

白村江の戦いから5年後の668年、中大兄皇子は「天智(てんじ)天皇」として即位。
その2年後、670年には初めて全国的な「戸籍(こせき)」「庚午年籍(こうごねんじゃく)」をつくり、国力の強化につとめました。

天智天皇がなくなると、皇位をめぐる争いから「壬申(じんしん)の乱」が起き、673年、天智天皇の弟「天武(てんむ)天皇」が即位、あとをついだその皇后「持統(じとう)天皇」は、「飛鳥浄御原令(あすかきよみはらりょう)」を施行するなど、国政改革を進めます。

そして694年、持統天皇は「藤原京(ふじわらきょう)」に都をうつします。
藤原京は、天皇の住まいや役所のある宮城(きゅうじょう)を中心におき、周囲に碁盤の目のように区画された都市が広がる初めての本格的な都でした。

701年、「大宝律令(たいほうりつりょう)」が完成。
中央集権が強化され、天皇が君主となって、中央・地方の豪族・人民を掌握、全国を統治・支配するしくみができあがります。

大宝2年の戸籍があります。
6年ごとに戸籍をつくり、6歳以上のすべての人に一定の土地「口分田(くぶんでん)」を与えました。

大分県の沖代(おきだい)平野には、公平に土地を与えるために区画整理された跡が今も残っています。
土地を1辺およそ109mの正方形にくぎり、口分田として終身使用させ、収穫した稲を税として徴収(ちょうしゅう)しました。
農民の生活を保障して徴税(ちょうぜい)する、これを「班田収授法(はんでんしゅうじゅのほう)」といいます。
これまで、農民など人民は豪族の私有民という立場でしたが、律令国家では、戸籍に登録され公民(こうみん)となりました。
また、豪族の私有地だった農地は口分田として公民が終身使用できる公地となりました。
そして、この公地公民を天皇が支配する、という制度が確立したのです。

こうして土地と人民を天皇が支配する中央集権国家となっていったのです。

えり 「土地・人民を豪族が支配し、その豪族を支配するのが大王、というのが氏姓制度にもとづく大和王権の支配体制。一方、律令国家の中央集権的支配体制とは、豪族、農民、土地もすべて、天皇が直接支配する、というのが大きな違いですね。」

日本史なるほど・おた話〜「大化の改新」から歴史の真実を考察する

飛鳥時代のおもしろくてためになる話を、渡辺晃宏先生に伺います。

渡辺先生 「大化の改新について少し、掘り下げて考えてみたいと思います。大化の改新というと、以前は中大兄皇子と中臣鎌足が、政敵の蘇我氏を倒して、そのあと改新の詔という4つの大きな政治の方針を出して、それがすぐに実現されたみたいなイメージで描かれてきていたんですけれども、最近は考え方が変わってきていて、『日本書紀』という歴史書に大化の改新のことが書いてあるんですけれども、日本書紀って720年にできた歴史書ですから、8世紀の知識で書き直されている部分が多いんじゃないかっていうことがわかってきた。木簡という土の中から見つかる生の資料があるんですけれども、それと比べることによって、言われるようになってきた。」

えり 「大化の改新は645年ですから、75年ぐらいの間でなんかこうちょっと後付けで書かれているってことですか?」

渡辺先生 「701年に大宝律令ができてあたらしいい国づくりの国家像というものが打ち出されますので、その大宝律令の知識で書き直されている部分がある、っていうんですね。研究者によっては、大化の改新そのものを全部、否定しようという研究をした人もいます。」

渡辺先生 「今では、全部否定するところまではしなくていいんじゃないか、というようになってきましたけれども、現在では、大化の改新のクーデターが起きて、そのあとに新しい国づくりの方針が出されて、それが徐々に50年以上かけて実現していったんだろうと。例えば、仏教が日本に伝わった年代、皆さん、何年って覚えてます?」

えり 「仏教伝来ご参拝(538)って覚えました。」

渡辺先生 「そうそう、538年ですよね。実は日本書紀には552年、もちろん西暦では書いてないんですけれど、552年のこととして記録されているんです。だけど他のいろんな資料と比較して比べる、こういうのを『史料批判』といいますけれども、比べることによって、日本書紀の552年じゃなくて、538年が正しいだろうということで教科書なんかでも採用されているんです。歴史書に書いてあることを、そのまま信じちゃいけないっていうことですね。」

それでは、次回もお楽しみに!

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