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日本史

Eテレ 毎週 金曜日 午後2:00〜2:20
※この番組は、前年度の再放送です。

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日本史

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今回の学習

第2回 第1章 古代国家の形成と貴族文化の誕生

弥生文化と小国家の形成

  • 日本史監修:東京都立上野高等学校非常勤教員 尾 久照
学習ポイント学習ポイント

一.弥生文化 〜稲と鉄器 二.戦争と国のはじまり 三.邪馬台国

  • 歴史は暗記科目ではありません

「日本史」は暗記科目ではありません。
歴史を学ぶ上で最も大切なことは時代を推理することであり、推理することで日本史を学ぶことがもっと楽しくなります。
今日も時代を推理しながら、AKB48の3人と楽しく学んでいきましょう。

弥生時代は日本に稲作が伝わり、米が主食になった時代でした。
米は食べ物というだけではなく、日本の文化にとっても大変重要なものです。

今回の時代と三つの要
  • 今回の時代
  • 三角縁神獣鏡

今回学ぶのは、紀元前5世紀頃〜紀元3世紀頃、縄文時代の終わりから弥生時代にかけての時代です。
稲作が伝えられると、縄文時代の社会のしくみが大きく変わっていきました。
その変化は、日本列島に何をもたらしたのでしょうか。

今回の三つの要は、
一.弥生文化 〜稲と鉄器
二.戦争と国のはじまり
三.邪馬台国

です。
この三つから、弥生時代を推理していきましょう。


スタジオには、三角縁神獣鏡(さんかくぶちしんじゅうきょう)のレプリカを用意しました。
模様とは反対側の面は、反射してきちんと顔を映し出します。

本物は、銅とスズの合金である青銅でできており、こういった金属器が大陸から伝わってきました。
それまでなかったものが伝わり、社会のしくみが変わっていったのが弥生時代でした。

要 其の一 「弥生文化 〜稲と鉄器」
  • 大陸から2500年前に稲作が伝わる
  • 日本最古の水稲耕作が行われた水田跡

今から約2500年前、大陸から北九州に渡って来た人々によって、稲作とその技術が伝えられました。
佐賀県唐津市の菜畑遺跡は、日本最古の水稲耕作が行われた水田跡です。
板や杭で水路を作り、隅々まで水が行き渡るように工夫されていました。
この遺跡では、焼けて炭になった米である炭化米が発見され、ここで米作りが盛んに行われていたことがうかがえます。

  • 米作りの農具
  • 刈り取った稲は石包丁で脱穀した

米作りの農具も伝わり、木を磨製石器で削って作った鍬や鋤を使って、土を耕しました。
また稲が実ると石包丁で刈り取り、脱穀して食べました。

  • 大陸から鉄器も伝わる
  • 祭りごとに使われた青銅器も伝わる

やがて、大陸からは鉄器も伝わりました。鉄器によって、磨製石器よりもはるかに効率よく農具を作ることができるようになり、水田の開発が加速されていきました。
また、同じ頃に青銅器も伝わりました。青銅器は鉄とは違い、祭りごとの道具に使われたと考えられています。

  • 米を蓄える高床倉庫が造られる
  • 集落は平野へ

稲作が始まると、竪穴住居のほか、米を蓄える高床倉庫が造られました。
集落は、小さな山々から平野の方へと移っていきます。
こうして、これまでの社会が大きく変わっていきました。

  • 縄文の温暖な気候から平均気温が1.5℃下がる
  • 農耕社会になった

このように、稲と鉄が伝わったことで、縄文時代の社会が大きく変わっていったと考えられています。
つまり、水稲耕作を主な生業とし、金属器などを使うことが特色の弥生文化へと変化していきました。

前回、縄文時代は自然が豊かで、食料も豊富だったということを学びました。
そのような豊かな時代が、なぜ変わったのでしょうか。

縄文時代は、平均気温が現代よりやや高いという環境でした。
しかし、およそ4000年前から気温が下がり始め、平均気温は約1.5℃低下しました。
この平均気温の低下によって日本列島の自然、特に森林は大きな影響を受けました。樹木の種類が変わったり、木の実の量が減ったりするなど大きな変化が起こります。
そのため豊かな自然の恵みに支えられていた生活は、危機にさらされることになりました。

そこで当時の人々は、大陸で行われていた米作りや金属器を受け入れ、農耕社会を作っていくことになります。
すると、さらに大きな変化が起こることになります。

要 其の二 「戦争と国のはじまり」
  • 水や土地をめぐり争いが起こる

稲作によって食料の余剰が生まれ、蓄積ができるようになると、人々の間に貧富の差が生じて身分の区別が起こってきました。
集落では、水田作りなどの共同作業を指導するリーダーが現れます。同時に、リーダーは稲作の儀礼をつかさどり、次第に人々を支配するようになったと考えられています。
また、水や土地をめぐって他の集落との間で争いが起きると、リーダーは戦闘の指揮をとりました。

  • 紀元前2世紀から3世紀の集落跡
  • 矢じりが刺さった子どもの骨盤

日本海に面した鳥取県、青谷上寺地(あおやかみじち)遺跡は、紀元前2世紀から3世紀にかけて続いた集落跡です。
ここから、およそ100体分の人骨が出土しました。人骨には、刀や弓矢による傷痕が残っていました。
ある女性の頭蓋骨には、額に穴が開いています。また、青銅の矢じりが刺さった子どもの骨盤も見つかっており、この時代の戦いの様子を今に伝えています。

  • 日本最大の弥生時代の集落跡
  • 深さ3m以上の堀で囲まれた環濠集落

佐賀県にある吉野ヶ里遺跡は約40ヘクタールという規模をほこる、日本最大級の弥生時代の集落跡です。
集落を囲むように、深さ3メートル以上の濠(ほり)が掘られていました。このように、防衛のために濠で囲まれた集落を、環濠集落といいます。

戦いに勝った集落は、破れた集落を従え、やがて「国」になっていきました。

  • 中国では日本列島に住む人々は倭人と呼ばれていた
  • 狩猟の道具が武器に変化

この時代の日本列島に住む人々を知る手がかりが、中国の歴史書に残されています。
当時の日本列島に住む人々は、「倭人」と呼ばれていました。
「漢書」地理誌によると紀元前1世紀頃、「倭人は百余りの国に分かれ、大陸へ定期的に使いを送っていた」といいます。また150年頃には、倭国は大いに乱れ、国々が互いに争ったと伝えています。


農耕社会へと移り変わった当時の日本で起こった大きな変化は、国ができ始めたということでした。

縄文時代に使われた石鏃(せきぞく)と、弥生時代の鉄の矢じりを比べてみます。
縄文時代には狩猟の道具だったものから、弥生時代には武器に変化していったことが、この遺物から想像できます。

要 其の三 「邪馬台国」
  • 3世紀はじめに女王 卑弥呼が争いを収める
  • 中国に使者を送り、倭王と認められる

2世紀後半頃から、倭の国々の間で争いが激しくなりました。
3世紀はじめになり、卑弥呼という女性を王に立てることによって争いは収まりました。
卑弥呼は、邪馬台国を治める女王でした。
このことについて書かれた、中国の歴史書「魏志倭人伝」には、卑弥呼は呪術が得意で、1000人の召使に身のまわりの世話をさせたと記されています。

卑弥呼は邪馬台国を中心として、およそ30の国々を支配しました。
さらに「魏志倭人伝」には、卑弥呼が中国に使いを送り、倭の王と認められたことが書かれています。そのとき、中国の皇帝は卑弥呼に「銅鏡百枚を与えた」と記されています。

  • 京都国立博物館
  • 京都美術工芸大学 村上隆教授

卑弥呼への贈り物として外交にも使われたほど、鏡は当時とても貴重なものでした。
この鏡が、現在とは違う使われ方をしていた可能性について、土保さんが調べてきました。

土保さんは京都市にある京都国立博物館を訪ね、京都美術工芸大学の、村上 隆(りゅう) 教授に話をうかがいました。
村上先生は、三次元プリンターという装置を用いて三角縁神獣鏡の復元モデルを作ることに成功しました。形や金属の成分など、ほぼ完全な姿に仕上がったといいます。

  • 復元した鏡の表
  • 薄いところは1mmもない

復原した鏡の表側には、土保さんがはっきりと映し出されています。土保さんは、もっとぼやけて映るものだと思っていたようです。
それに対して裏側は、とても細かい模様まで再現されています。

中央の突起の厚みは2cm強〜3cm弱程度ありますが、周辺の模様が刻まれた部分は薄く、場所によっては厚さは1mmもないといいます。
「このように復原することによって、当時の人の金属を使って物を作る、物作りの技術が見えてくる」と村上先生は話します。

  • 裏の比較
  • 文様が映し出される

次に村上先生が見せてくださったのは、本物の三角縁神獣鏡です。
3世紀末頃の遺跡から出土した重要文化財で、完全な形で出土したことから、復元のモデルになりました。

古代の人々は、この鏡をどのように使っていたのでしょうか。
村上先生によると、鏡と太陽との関係が重要だとのことでした。そして太陽の光によって鏡が起こす「ある現象」を見せていただくことになりました。

今回は、太陽光と同じ光を出す特殊な装置を使い、光を鏡に当てました。
すると、壁に鏡の裏側の文様が映し出されました。つまり鏡が太陽の光を反射するときに、裏側の文様が表の鏡の面で反映され、文様が映し出されたのです。

  • 鏡の裏側の比較
  • 磨いていくと裏側の文様に応じてわずかな凹凸
  • 凹部は光を集約、凸部は散乱

鏡の面を磨いていくと、裏面の文様に応じてわずかな凹凸ができます。
そこへ太陽の光を当てると、鏡の面の凹んだ部分は光を集約して明るく、一方 突き出た部分は散乱して暗くなります。
こうして、文様が浮かび上がるという仕組みです。

  • 太陽信仰と権威の象徴
  • 三角縁神獣鏡のまとめ

村上先生「古代の光というのは、太陽の光しかありませんでした。そのため太陽を崇める強い気持ちを、鏡の反射に込めたんじゃないかと思います。」

土保「太陽は大事だったんですね。」

村上「その大事さを、彼らはよく理解していたのだと思いますし、太陽の力を自分たちの権威の象徴にも使っていたと考えてもいいかもしれません。」


このように鏡は、古代の人々の太陽信仰と関係があるのではないかと、村上先生は考えています。
また模様を映し出すため、鏡はとても高度な技術で作られていたことも分かりました。
こうしたことから、鏡は貴重なものだったということが分かります。

日本の歴史 いとをかし
  • 特別講師の尾崎先生
  • 邪馬台国論争

今回も特別講師として、尾赴v照 先生(元 東京都立忍岡高等学校教諭)にお越しいただきました。

邪馬台国があった場所に関しては「邪馬台国論争」というものがあり、大きくは畿内説と九州説という、二つの学説に分かれています。

もし邪馬台国が畿内にあったとすれば、近畿から九州北部という広い範囲の政治的連合となり、遅くとも4世紀に成立した大和王権にも直接つながる可能性があります。

一方、九州にあったとすれば、比較的小さい範囲の政治連合となります。
すると、大和王権は九州にあった勢力が畿内に移動して大きくなったか、あるいは新たに出現した勢力が大和王権になって九州を統合したということが考えられます。

邪馬台国がどこにあったのかという問題は、大和王権との関係を考える上で、非常に重要な問題だといいます。

  • 邪馬台国とも関わりが考えられている纏向遺跡
  • この時期最大の建物跡

奈良県桜井市にある纏向(まきむく)遺跡は、邪馬台国とも関わって、近年注目されています。
弥生時代末期から古墳時代はじめにかけての遺跡で、約2km四方の広大な規模を持っています。

その特徴は、3世紀前半の、この時期最大の建物跡が発見されていることです。建物は、東西約12m、南北約19mという大きさです。

  • 全国の土器が出土
  • 次回もお楽しみに〜!

また、関東から九州北部にいたる、全国各地で作られたと考えられる土器などが数多く出土しています。つまり、各地からここに搬入されたと考えられます。

纏向遺跡は非常に広大な遺跡で、まだ一部しか発掘されていません。
邪馬台国と大和王権が生まれる、ちょうどその間の時代の遺跡であるため、新しい発見に期待が持てると尾武謳カは話します。


それでは、次回もお楽しみに〜!

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