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日本史

Eテレ 毎週 金曜日 午後2:00〜2:20
※この番組は、前年度の再放送です。

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今回の学習

第2回 第1章 古代国家の形成と貴族文化の誕生

弥生文化と小国家の形成

  • 監修講師:東京都立日野高等学校教諭 武藤正人
学習ポイント学習ポイント

弥生文化と小国家の形成

歴史を語り合う茶屋、歴カフェ。
日本史が大好きな店員、小日向えりさんのもと、歴史好きの平野詩乃さん、市瀬悠也さんが集まってきました。

今回は縄文時代の終わりから弥生時代にかけて。
縄文時代の終わりに稲作が伝えられると、社会の仕組みが大きく変わっていきました。
今回のテーマにせまる3つのポイントは「弥生文化」「小国の分立と大陸との関係」「邪馬台国」
稲作に始まる社会の変化が、日本列島に何をもたらしたのか、考えていきましょう。

弥生文化

弥生時代といえば、やはり「稲作」

えり 「実は、稲作が始まったのは『弥生(やよい)時代』っていうイメージがあると思うんだけど、日本で始まったのは縄文(じょうもん)時代の終わりごろからって言われているんです。稲作が最盛期を迎えて、“新しい文化”が栄えたのが弥生時代ということなんです。」

悠也 「時代と時代は、突然ある日を境にして切り変わっていたわけじゃないってことだね。」

えり 「そして、旧石器、縄文と使われ続けていた石器も、弥生時代の稲作に合わせて変化したんです。弥生時代の石器、『石包丁(いしぼうちょう)』です。」

この石包丁は、稲刈りに使われていました。
こうした稲作の技術はどこから伝わってきたか、みなさんは覚えていますか?

紀元前4世紀ごろ、大陸から北九州に渡って来た人々によって、稲作とその技術が伝えられました。
佐賀県の菜畑(なばたけ)遺跡は、日本最古の「水稲(すいとう)耕作」が行われた水田跡です。
板や杭(くい)で水路を作り、すみずみまで水が行き渡るように工夫されていました。
この遺跡で、焼けて炭になった米、「炭化米」が発見されました。
米作りが盛んに行われていた様子がうかがえます。

米作りの農具も伝わりました。
木製のクワやスキを使って土を耕しました。
また、大陸からは「鉄器」も伝わりました。
鉄器によって、石器よりもはるかに効率よく農具が作れるようになりました。

稲作が始まると、集落は、丘や台地から平野の方へと移っていきます。
集落では竪穴(たてあな)住居のほか、米をたくわえるために床を高くした「高床(たかゆか)倉庫」が作られました。
大事な米をネズミから守るために、当時の人々が考え出したのが「ねずみ返し」です。

青銅で作られた「銅鐸(どうたく)」。
鉄器と同じころに伝わったのが「青銅器」です。
神や先祖を祭る祭祀(さいし)の道具に使われたと考えられています。

水稲耕作をおもな生業(なりわい)とし、青銅器や鉄器などを使う事を特色とする文化を「弥生文化」とよび、紀元3世紀ごろまでを弥生時代といいます。

詩乃 「弥生時代は、日本中に稲作が広まった時代っていうことだよね。」

えり 「日本中というとちょっと違うかな。今の北海道と沖縄地方は、稲作が行われずに、縄文時代を基にした独自の文化が続いてたんです。」

「国宝桜ヶ丘5号銅鐸」の複製品を見てみましょう。

詩乃 「銅鐸って青緑っぽいイメージだよね?」

えり 「あの色は青銅が長い間にさびちゃった色なんです。だから実際はこんな色をしてたんですね。」

この銅鐸には、脱穀している姿、魚や虫が描かれています。

詩乃 「みんな稲作に関係しているのかもしれないね。」

小国の分立と大陸との関係

稲作によって食料の余剰が生まれ蓄積ができるようになると、貧富の差が生じ、身分の区別が起こってきました。
集落では、水田作りなどの共同作業を指導するリーダーが現れます。
稲作の儀礼をつかさどり、しだいに人々を支配するようになったと考えられています。
また、水や土地をめぐって集落との間で争いが起きると、リーダーは戦闘の指揮をとりました。

鳥取県、青谷上寺地(あおやかみじち)遺跡。
紀元前2世紀から3世紀にかけて続いた集落跡です。
ここから、およそ100体分の人骨が出土しました。
人骨には、金属の武器による傷跡が残っていました。
男性の骨盤には青銅の矢じりが刺さっていました。
この時代の戦いの様子を今に伝えています。

このような争いに備えるため、集落の形も変わりました。
佐賀県にある吉野ヶ里(よしのがり)遺跡は、弥生時代で日本最大級の集落跡です。
集落を囲むように、深さ3メートル以上の堀が掘られていました。
防衛のために堀で囲まれた集落を「環濠(かんごう)集落」といいます。
戦いに勝った集落は敗れた集落を従え、やがて「国」になっていきました。

縄文時代に使われていた石のやじり「石鏃(せきぞく)」と、弥生時代に使われた鉄のやじりを比べてみると、弥生時代は大きくなっていることがわかります。

悠也 「縄文時代は狩りの道具だったのに、弥生時代のやじりはいかにも武器って感じだね。」

えり 「ところで、当時の国の様子がどうしてわかると思う?」

弥生時代の日本列島に住む人々を知る手がかりは、中国の歴史書に残されています。
当時、人々は「倭人(わじん)」と呼ばれていました。
中国の“『漢書(かんじょ)』地理志(ちりし)”によると、紀元前1世紀ごろ、倭人は百あまりの国に分かれ、大陸へ定期的に使いを送っていたといいます。

ついで、“『後漢書(ごかんじょ)』東夷伝(とういでん)”では、紀元57年に倭の奴(な)の国王が、中国・後漢の皇帝に使者を送り、印綬(いんじゅ)を受けたと記されています。

中国から賜った印は、江戸時代に九州北部で水田の溝を整備していた時、偶然に見つかりました。
その金印(きんいん)に彫られている文字。
「漢の委の奴の国王」(かんのわのなのこくおう)と読む説が有力です。
中国の歴史書の記述の真偽が、考古学の発見によって裏付けられたと言えます。
また、「後漢書」によれば、150年ごろには倭国は大いに乱れ、国々が互いに争ったと伝えられています。

詩乃 「これは矢が刺さった骨が出てきたりとか、環濠(かんごう)集落などから裏付けることができるんだね。」

えり 「そう。中国の書物と、考古学の研究の成果から、日本の昔の様子がわかるんだね。」

2世紀後半ごろから激しくなった倭国の大乱は、3世紀初めになり、「卑弥呼(ひみこ)」を王に立てることによっておさまりました。
実は、卑弥呼が王になった経緯はとても平和的なものでした。
中国の歴史書“『魏志(ぎし)』倭人伝(わじんでん)”には、「共に一女子を立てて王となす」と記されています。
卑弥呼は倭の国々が共立した王だったのです。
卑弥呼が女王としておさめた国が「邪馬台国(やまたいこく)」
その邪馬台国を中心として、およそ30の国々を支配しました。

卑弥呼は「鬼道(きどう)」、つまり呪術が得意だと記されています。
宗教的な儀式を行う司祭者として国をおさめました。
『魏志』倭人伝には、卑弥呼が中国に使いを送り、「親魏倭王」(しんぎわおう)の称号を与えられ、倭の王と認められたことが記されています。
この時、金印と、銅鏡100枚が贈られたとも記されています。
当時の邪馬台国は狗奴国(くなこく)と対立していましたが、狗奴国との戦争の際にも、魏の皇帝の権威を借りようとしました。

えり 「(卑弥呼は)中国から銅鏡や倭の国王の称号をもらったり、あと、鉄などの供給先を確保したりと、外交もしていたんです。」

では、その邪馬台国はどこにあったのでしょうか?
全国で80か所以上の説がありますが、九州説と近畿説が有力とされています。

邪馬台国

近畿説を裏付ける上で注目されているのが、奈良県の纏向(まきむく)遺跡です。
邪馬台国があったとされる3世紀の地層から、巨大な建物の跡が見つかったのです。
幅19メートル、奥行き12メートル、当時の日本列島では最大のものです。
これが邪馬台国の女王、卑弥呼の王室だったのではないかと注目されたのです。
「魏志 倭人伝」には邪馬台国の特徴が記されています。
その1つが王国の施設です。
王の住まいとされる「宮室(きゅうしつ)」、物見やぐらの「楼観(ろうかん)」そして「城柵(じょうさく)」。
纏向で発見された建物は、このうちの宮室にあたると考えられたのです。

一方、九州説を裏付けるのが、佐賀県の吉野ヶ里遺跡です。
縦横12.5メートルもある建物は、宮室。
物見やぐらの楼観、そして城柵。
魏志 倭人伝に記されている施設がすべて見つかっています。

邪馬台国はどこにあったのか?
九州説、近畿説、いずれも具体的な証拠が見つかっていないため、いまだ結論は出されていないのです。

日本史なるほど・おた話〜東アジアに視点を広げて日本史を考える

弥生時代のおもしろくてためになる話を、武藤正人先生にうかがいます。

武藤先生 「今回は東アジアという広い視点でこの時代を見てみましょう。日本列島に稲作などの文化を伝えた渡来人は、なぜ大陸からやってきたのだと思いますか?」

縄文時代の終わりごろ、中国は7つの国が争う春秋・戦国時代を迎えていました。
その中で、頭角を現してきたのが、最も西に位置した秦(しん)です。
550年続いた戦乱の末、紀元前221年、秦がついに中国統一を成し遂げます。
この時、日本は弥生時代を迎えていました。
秦の王は、天下の支配者にふさわしい称号として「皇帝」を名乗りました。
ファースト・エンペラー「始皇帝(しこうてい)」の誕生です。

詩乃 「渡来人はそんな戦乱の時代に日本に移って来たってことだよね?それって難民だったんじゃないかな?」

武藤先生 「難民のような立場の人もいたかもしれません。あるいは、積極的に新天地での経済活動を求めてやってきた可能性もありますね。次に、卑弥呼の時代の東アジアの様子を見てみましょう。」

武藤先生 「卑弥呼の時代はずっと進んで3世紀。中国は秦の滅亡後、漢の時代を経て三国時代を迎えていました。」

えり 「三国時代は、中国で魏(ぎ)・呉(ご)・蜀(しょく)が3つに分かれて覇権を争っていた時代ですよね。」

武藤先生 「では、なぜ卑弥呼はその三国の中で、魏に使いを送ったのだと思いますか?」

えり 「三国の中でも魏は、中国との外交の窓口だった楽浪郡(らくろうぐん)や帯方郡(たいほうぐん)を押さえているから、だから魏に使いを送るっていうのが自然だったんじゃないかな?魏にとっては、倭国が呉と仲良くなって関係を深めることを恐れていたんじゃないでしょうか?」

武藤先生 「なるほど。卑弥呼が授かったとされる『親魏倭王』の称号は、かなりの厚遇だったといわれています。えりさんが言ったような背景があった可能性は大いにありますね。」

武藤先生 「東アジアという広い視点で時代を見てみると、さまざまなことに気がつきます。そこが大事だと思います。ダイナミックなアジア世界の様子が浮かび上がってきます。広い視点と繊細な視点、両方あわせて考えてみることも大事でしょうね。


それでは、次回もお楽しみに!

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