NHK高校講座

世界史

今回の学習

第33回

アジアの独立

  • 世界史監修:東京大学名誉教授/放送大学客員教授・水島 司
学習ポイント学習ポイント

アジアの独立

  • 野呂汰雅さんと政井マヤさん

ここは歴史の専門家も来店する無国籍雑貨屋。
政井マヤさん、野呂汰雅(たいが)さんと一緒に、世界史のおもしろさを探っていきます。

  • 独立を目指す民族運動

20世紀前半に起こった二つの大戦は、世界の枠組みを大きく変えました。
ヨーロッパ列強が大戦で疲弊するなかで、アジア各地で植民地支配からの独立を目指す民族運動が高まります。
イギリスの植民地だったインドでは、ガンディーが「非暴力・不服従」という理念を掲げ、運動を率いました。
植民地支配の下で多様な文化や宗教をもっていたアジアの人々はどのように国をつくっていったのでしょうか。

  • インドの切手は戦時郵便でも使われた

インドの古い切手を整理しているマヤさん。

マヤ 「インドの切手なんだけど、インド以外の国の消印があったりしてそこが面白いの。」

汰雅 「インドの切手が、インド以外の場所でも使われていたってことですよね?」

マヤ 「そう。イギリスが戦争をしたときに、その戦地から送られた戦時郵便でも切手は使われていたの。
イギリスの植民地時代にインドの兵隊が世界中に駆り出されていたから、ふるさとに宛てた手紙に使われた切手もあるのかなと思ってね。」

  • イギリス領インド帝国

18世紀半ばからインドの植民地化を進めたイギリスは、インド帝国を成立させ、総督府を置いて、直接支配する体制をとります。
この体制は、およそ3億人ものインド人民衆を、6万人ほどのイギリス人官僚が支配するものでした。
そのため、統治を補佐するインド人エリートを育成する必要がありました。
英語で教育する大学などの高等教育機関が各地につくられると、インド人の中に弁護士や技術者、ジャーナリストなどのエリート層が生まれました。

インド国民会議の設立
  • インド国民会議設立
  • ベンガル分割令

1885年、イギリス人やインド人エリートが集まって、「インド国民会議」が設立されます。
インド国民会議は設立当初、植民地政府に意見や要望を述べるだけの諮問機関でした。
しかし、イギリスは鉄道運営の赤字補填から退役軍人・退役官僚の年金までをインドに支払わせる政策をとったため、反発が強まります。
インド国民会議は民族運動の中心となり、「国民会議派」と呼ばれるようになっていきます。

1905年、イギリスは「ベンガル分割令」を布告します。
民族運動の中心であったベンガル地方を、ヒンドゥー教徒が多い地域と、ムスリムが多い地域に分ける(画像・右)ことで、イギリスに対する運動を分断しようとしたのです。
これに対して、国民会議派は抵抗運動を強化しました。

一方、イギリスは「全インド・ムスリム連盟」を結成させ、ヒンドゥー教徒が多い国民会議派と対立させようとします。
その後、ベンガル分割自体は取り消されましたが、ヒンドゥー教徒とムスリムの対立が残りました。

  • 水島司先生

お話をうかがうのは、東京大学名誉教授の水島司先生です。

汰雅 「イギリスは、なんでヒンドゥーとムスリムを分断しようとしたのでしょうか?」

水島先生 「支配者にとって、自分が支配する人々が団結して、自分に対して反対・反抗する、これがいちばん困るわけですね。
イギリスはヒンドゥー教徒とムスリムを分けるだけではなくて、いろんなところで『分割統治』、『divide&rule』という、“分けて統治する”ということをやっているんです。
例えば、そのうち選挙の話が出てくるんですが、選挙の中でいちばん上の階層がバラモンで、そのあとはクシャトリアとか、インドはそういうシステムが古くから変化しながら続いていましたが、非バラモン、バラモンではない人たちに特定の議席を割り当てるとか、そういう意味ではいろんな形で分割統治というのはやっていたわけです。それは支配者にとって分割統治というのは決定的に重要な方法であって、当たり前の方法だったと言えると思います。」

  • 首都をカルカッタからデリーへ移す

1911年、イギリスは民族運動の拠点だったカルカッタからデリーへ首都を移し、事態の鎮静化をはかります。
1914年、第一次世界大戦が勃発すると、イギリスは、インドの人々の協力を得るために、戦争が終われば自治を認めると約束します。
大戦では150万人のインド兵が戦争に駆り出され、戦死者は3万6000人にのぼりました。

  • ローラット法
  • アムリットサール虐殺事件

しかし、戦後、イギリスがインドに許した自治は地方行政の一部だけでした。
それどころか、イギリスに反抗する運動を弾圧する「ローラット法」を制定。
逮捕状なしで逮捕したり、裁判なしで投獄できるようにしました。
この法律に反対する人々の集会に、イギリスは軍隊を派遣。
女性や子供を含む1000人を超える民衆が殺されました。
「アムリットサール虐殺事件」と呼ばれます。
この事件をきっかけに、植民地政府とインド民衆の対立は決定的なもとのとなりました。


マヤ 「大虐殺というショッキングな出来事まで起こってしまうということは、それだけインド人の不満、そして統治するイギリス側のピリピリとした緊張関係があったのでしょうね。」

水島先生 「虐殺されて、運動は弾圧されて抑え込まれるかというと、実はそうじゃない。20世紀最大の巨人と言われている、誰でも知っている方がここに大きな役割を果たす形で登場するわけです。」

ガンディーと「民族」の発見
  • ガンディー
  • つむぎ車

民族運動への弾圧が激しくなる中、インドの独立に大きな役割を果たしたのが「ガンディー」です。
ガンディーは、19歳でイギリスに留学し法律を学びます。
弁護士として南アフリカで20年にわたり人権運動に携わりました。
1915年にインドに帰国。
国民会議派に迎えられます。
ガンディーはイギリスの機械織りの布に対抗して、手で糸を紡ぐ伝統的な「つむぎ車」の使用を奨励し、これを民族運動のシンボルとしました。
何も所有せず、身にまとうのは質素なインド木綿の布だけ。
ガンディーは、貧しい人々の心をとらえました。

  • ジンナー

ガンディーはヒンドゥー教徒でしたが、全インド・ムスリム連盟の指導者ジンナーとも協調関係をつくり、宗教や言葉、身分を超えた「ひとつのインド」を目指しました。
ガンディーは「非暴力・不服従」を唱え、イギリスの支配に対して暴力では対抗しない、しかし、服従もしないという抵抗運動を指導したのです。
ところが1922年、この運動に加わった農民が警察官を殺害する事件が起こります。
ガンディーは「非暴力・不服従」運動の停止を、突然、宣言しました。


汰雅 「『非暴力・不服従』の運動というのは、つまり殴られても殴られっ放しという状況だと思うんですが、ガンディーはなんでそのような方法をとったんですか?」

水島先生 「ガンディーにとって暴力は、人間が強いからじゃないんだと。じつは弱いから暴力に訴えるんだと。ですから『非暴力・不服従』、これを貫き通すことによって、弱い心をもった暴力をふるう人たちの心を変えられるんだと。ある意味では人間の解放というところまで考えた方策だったと言えると思います。」

マヤ 「その後、警官殺傷事件が起こるとガンディーは一度、運動の停止を指示してしまいますよね。」

水島先生 「ガンディーは、単に独立できればいいとは考えておらず、あくまで人間としての完成度、真理を把握する、そういう人間が大事だと。ですから、そういうところで暴力事件が起きてしまいますと、まだまだ我々は成熟していないんだと。そういうことなんですね。」

  • 岩塩
  • 海の塩

マヤ 「しばらくの間、ガンディーは活動から離れて…。」

水島先生 「全体的に沈滞してしまいますね。この運動をもう一度盛り上げようと、ガンディーはずいぶん悩むんですね。最後のぎりぎりのところで考え出したのは実は…。(画像)」

マヤ 「これは岩塩と塩…?」

水島先生 「そうですね。こちらはヒマラヤからとれた有名なピンク色の塩ですね。そしてこれから重要になっていく、海でとれる塩です。」

汰雅 「この塩が独立運動と関係があるっていうことですよね。」

水島先生 「そうなんです。」

  • 協力者70数人と、海に向けて歩き始めた

1930年、ガンディーは非暴力運動の協力者70数人と、海に向けて歩き始めました。
塩をつくるためです。
ガンディーが活動の拠点を置いていた町から海岸まで、歩いた距離は380キロ。
24日の行程です。
ガンディーの呼びかけに、沿道の村の農民たちもこれに参加。
群衆は数千人にふくれあがりました。
大勢で塩を作るというこの行動は、イギリスへの抗議でした。
なぜなら当時、塩の製造販売はイギリスが独占し、人々が勝手に塩を作ることを禁じていたのです。
この抗議運動は「塩の行進」と呼ばれています。
インド人による塩づくりの運動は全国に広がり、ガンディーも含め何万人もの人が逮捕されました。


汰雅 「これがインドの独立に、どうつながっていくんですか?」

水島先生 「イギリスが統治する以前は、海岸沿いでたくさん塩がつくられていたんです。それをイギリスは禁止して、自分たちだけが製造販売すると。
ガンディーはイギリスの植民地支配のおかしさ、不合理さというものを世の中に知らしめようとしたわけです。
ですから、塩を違法に採りに行きますよってことを、インド総督にまで手紙を送っているんです。」

マヤ 「事前に告知してるんですね。」

水島先生 「そうなんです。自分たちは違法行為をしますよと。」

汰雅 「でも、それを言ってしまったことによって、逮捕されてしまいますよね?」

水島先生 「実は、ガンディーは逮捕されることをむしろねらっていた。」

マヤ 「ある意味、メディア戦略なんですね。自国の国民も、世界中の世論も味方につけようとしたんでしょうか。」

水島先生 「塩というのは宗教の違いもないし、それから身分の違いもなく、人々が毎日日常的に必要とする、人々が生きていくうえで不可欠なものだったわけです。
ですから、この塩の行進は、インドの人々に民族意識をもってイギリスに対抗していくという、そういう非常に大きな運動になるひとつの大きな転換点だったといわれていますね。

汰雅 「これで団結して独立に向かっていくんですね。」

水島先生 「独立には確かに向かうんですが、そんなに簡単なことではないんですね。」

インド・パキスタンの分離独立
  • ネルー
  • パキスタン建国の目標を宣言

1939年、第二次世界大戦が勃発。
イギリスとともにインドも戦争に巻き込まれていきます。
インド総督府が参戦を宣言しますが、国民会議派のガンディーやその後継者ネルーは抗議し、反対の立場を取ります。
一方、全インド・ムスリム連盟はイギリスへの協力を決めます。
イギリスに近づくことで、戦後のムスリム国家としての独立を目指したのです(画像・右)。

  • インドとパキスタンに分かれて独立
  • ガンディーの葬儀

イギリスは第二次世界大戦に勝利します。
しかし戦争で疲弊したイギリスに、インド帝国の統治を続けていく力はなくなっていました。
1947年、イギリスはインドの統治権を手放すことを決めます。
国民会議派のネルーは「ひとつのインド」としての独立を目指していました。
しかし、ムスリム国家の建国を目指すジンナーとの溝は埋まらず、ヒンドゥー教徒が多く住むインドと、ムスリムが多数派のパキスタンに分かれて独立します。

この分裂は大きな混乱を生みました。
インドにいたムスリム、パキスタンにいたヒンドゥー教徒が住み慣れた土地から移動したのです。
このとき、それぞれの国に移動するヒンドゥー教徒とムスリムが衝突し、数十万人を超える命が失われました。
ガンディーは和解の道を探りますが、そうした姿勢をムスリム寄りと捉えたヒンドゥー過激派の青年によって暗殺されてしまいます。
ガンディーが目指した「ひとつのインド」は実現しませんでした。




マヤ 「インドとパキスタンの間には、その後3度にわたる戦争があって、今も緊張状態が続いていますよね。」

水島先生 「はい。」

汰雅 「『非暴力・不服従』という運動も理想に過ぎなかったんですか?」

水島先生 「たしかに今から考えると、理想主義的な、現実味がないように考えてしまいがちですが、実はそうじゃないですね。
その後、世界で『非暴力・不服従』というようなことを旗印に、例えばアメリカですと1960年代の公民権運動もありますし、それから南アフリカですと、アパルトヘイトの廃止運動というものが出てくるわけですね。」

マヤ 「また、インドの独立はアジアの他の国々にも影響を与えていますよね。」

水島先生 「そうですね。やはりインドが超大国イギリスから独立したことは非常に大きな意味を持っていたと思いますね。」

東南アジア諸国の独立
主なアジア諸国の独立年

インドの独立と前後して、他のアジア諸国も植民地支配からの自立を果たします。
インドネシアはオランダとの戦争を戦い、独立。
ベトナムもフランスとのインドシナ戦争の後、独立します。
イギリスの植民地だったビルマやマレーシアも独立を勝ち取ります。
アジア諸国は民族や宗教の違い、大国の干渉といった試練を受けながらも自立の道を歩んでいきます。

ガンディーの断食
  • 断食をするガンディー

マヤ 「『塩の行進』と並んでガンディーの『非暴力・不服従』の象徴と言われるのが『断食』です。
ガンディーはムスリムとヒンドゥーが対立する地域に入っては、しばしば断食をしました。ガンディーが断食をすると、まるで奇跡が起こるように、昨日まで対立していたヒンドゥー教徒とムスリムの人たちが武器を捨てて、手を取り合ったといいます。
ガンディーの断食はどうしてそんなに大きな力を持ったと思いますか?」


それでは次回もお楽しみに!

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