NHK高校講座

世界史

今回の学習

第28回

ムガル帝国からインド帝国へ

  • 世界史監修:東京大学名誉教授/放送大学客員教授・水島 司
学習ポイント学習ポイント

ムガル帝国からインド帝国へ

  • 政井マヤさん
  • 富田早紀さん

ここは歴史の専門家も来店する無国籍雑貨屋。
政井マヤさん、富田早紀さんと一緒に、世界史のおもしろさを探っていきます。

  • インド帝国

16世紀に成立したムガル帝国は、インドの広い地域を支配し、ヨーロッパやアジア諸国とも関係を結んで繁栄を謳歌します。
しかし、18世紀にムガル帝国が衰退する中でイギリスが支配を進め、インドを植民地化していきました。
そして、インドは大英帝国を支える最も重要な柱になっていくのです。

  • チャパティ

マヤさんがお昼の準備をしています。
今日のメニューは、カレー。

早紀 「あれ?これって『ナン』ですか?」

マヤ 「似ているけど、ナンではなくて、『チャパティ』っていうものなの。小麦粉を練ってそのまま焼いたもの。簡単だから一般的な家庭でよく食べられているものなの。」

早紀 「そういえば、インドは古くから地域によって文化や習慣が違って、主食も西は小麦、東と南はお米でしたよね。
日本のカレーって、カレーライスがいちばんメジャーじゃないですか。それって、カレーがインドの東から伝わったからじゃないですか?」

マヤ 「すごい!って言いたいところなんだけど、カレーはイギリスを経由して日本に伝わったの。インドの中世から近世の歴史を見ていくと、よく分かるわよ。」

ムガル帝国の盛衰
  • バーブルがムガル帝国を建国
  • アクバルは領土を北インド全域に広げていく

インドでは、古来、仏教やヒンドゥー教を保護する王朝が繁栄と衰退を繰り返してきました。
しかし、10世紀ごろ、イスラーム勢力の侵入が始まります。
13世紀以降、デリーを本拠とするイスラーム王朝が支配するようになっていきました。

1526年、モンゴル帝国の末裔とされる「バーブル」が、デリー周辺を拠点として「ムガル帝国」を建国しました。
「ムガル」とは、「モンゴル人の」という意味です。

1558年に即位した第3代皇帝「アクバル」は、強力な軍事力によって、領土を北インド全域に広げていきます。
アクバルは、「万民との平和」を政治理念に掲げ、人民の大多数を占めるムスリムではない人々と共存する政策を実施しました。
非ムスリムに課されていた人頭税(ジズヤ)を廃止し、非ムスリムを役人にも積極的に登用したのです。
アクバルの治世以降、ムガル帝国は最盛期を迎えていきます。

  • タージ・マハル
  • アウラングゼーブの時代にはほぼインド全域を支配

第5代皇帝によって建てられた「タージ・マハル」は「インドの至宝」とも称えられる、インド・イスラーム文化の代表的建築です。
そして、第6代皇帝「アウラングゼーブ」の時代、帝国の領土は最大となり、ほぼインド全域を支配しました。
ところが、1707年にアウラングゼーブが亡くなると、ムガル帝国は急速に衰退していきます。

  • 水島司先生
  • ムガル帝国の軍備制度

お話をうかがうのは、東京大学名誉教授の水島司先生です。

早紀 「第6代皇帝の時に領土が最大に広がったのに、その皇帝が亡くなったら急速に衰退しちゃったって…、水島先生、どうしてですか?」

水島先生 「いくつか理由があるんですが、かなり大きな要因としては、領土があまりにも大きくなりすぎたからというのがありますね。
ムガル帝国は中央アジアからやってきた、ある意味少数派です。ですから、軍隊の維持は大変重要な課題だったわけです。官僚の位に応じて、維持すべき騎兵の数を決めます。そういう官僚に対して、直接給料を払うんじゃなくて、税金を集めることができる『地域』を与えるんですね(画像・右)。そうしますと、支配地が広がってしまったので、あげられる土地がもうなくなってしまっているということが起きます。」

マヤ 「急速に衰えた他の要因は、何があるんですか?」

水島先生 「ムスリムじゃない人にかけていた税金、人頭税、ジズヤって言うんですけど、アウラングゼーブは、それを復活させてしまいます。」

早紀 「どうして復活させてしまったんですか?」

水島先生 「アウラングゼーブは、よく知られているのは非常に熱心なイスラーム教徒だったということで、ジズヤを集めることで宗教心を表したということが言えると思います。
帝国内の大多数は非ムスリムですから、反乱があちこちで頻発してしまう。それを鎮圧するために、戦いに次ぐ戦いで、ムガル帝国はどんどん疲弊していくということになります。」

  • ムガル帝国の支配はデリー周辺のみに限られた

アウラングゼーブの死後、ムガル帝国の支配はデリー周辺のみに限られました。
帝国の高官だったニザームや地方役人だったナワーブ、さらにはヒンドゥー教徒の勢力マラーターなどが各地で独立します。
北西部は、ヒンドゥー教とイスラームを融合させた「シク教」を信仰する人々が支配しました。
さらにイランの勢力による侵略を受けるなど、ムガル皇帝の威信は揺らいでいきました。
そして18世紀半ばになると、イギリスとフランスが勢力を争うようになります。

植民地化とインド帝国の成立
  • イギリス東インド会社の主な拠点
  • フランス東インド会社もポンディシェリに拠点を築く

「イギリス東インド会社」は、西のムンバイ、東のコルカタ、南のチェンナイを拠点に、インド産綿布を購入していました。
イギリスにやや遅れて、「フランス東インド会社」も、ポンディシェリに拠点を築きます。

  • 七年戦争
  • プラッシーの戦いでイギリス東インド会社軍が勝利

1756年にヨーロッパで、イギリスとフランスが戦った「七年戦争」が始まると、インドでも両国の戦闘が起こりました。
その結果、敗れたフランスはインドでの力を失い、イギリスがさらに勢力を伸ばしていきます。

その過程で、イギリス東インド会社は、単なる貿易会社ではなくインドを統治する政治勢力へと変質していきました。
敵対しあう各地の支配者に軍事や財政面の援助を行い、その代償として土地からの「徴税権」を取得したのです。

イギリス東インド会社の支配地域

また、有力な地方勢力を軍事的に屈服させました。
こうして、19世紀前半までに、ほぼ全インドをイギリス東インド会社が支配しました。

早紀 「徴税権を持つということは、その土地の領主になるようなものですよね。貿易会社なのに。」

水島先生 「そうですね、不思議な感じがしますね。確かに、最初は貿易会社なんです。ところが軍事的な援助を地方の領主にする。徴税権をもらうってことは税金がそのままポケットに入ってくるわけで、打ち出の小槌(こづち)のような、そういう存在。というのは、集めた税金で商品である綿布を買う。それを本国あるいはヨーロッパに輸出するということは、言ってみれば元手なしで多くの商品と利益を得ることができる、そういうことになってしまったわけです。」

マヤ 「何しろイギリスは、インドからたくさんの利益を得たということですよね。」

水島先生 「そうした貿易による利益だけではなく、インドで地方政権とか地方領主と密接な関係を持って、大金持ちになるんです。その財産をイギリスに持って帰って、広大な邸宅を買ったり。大変なお金持ち、これを『インド成金(ネイボップ)』って言いいます。
ひょっとしたら、駐在先のインドで雇っていた料理人をイギリスに連れて帰って、それでカレーが伝わったという可能性もあるかと思いますが…。」

マヤ 「なぜお米のインドカレーが伝わったかというところですよね。」

イギリスの統治のやり方には、「直接統治」「間接統治」がありました。
間接統治は、名目上は従来の支配者を残す方法です。
しかし、実権はイギリス人が握っていました。
一方、跡継ぎがいないなどの理由で従来の支配者を排除して、直接統治を広げていきました。
ピンク色は、1820年以降直接統治になった地域。
イギリスのこの方法に不満を持つインド人が増えていきました。

  • アワド

水島先生 「特に、その後の展開で大きな意味を持ったのが、『アワド』というデリーのすぐ東にある、名門の国だったんですね。ここを直轄にしてしまうということで、大きな反発が生じていた。
その直後くらいの1857年に、その後のインドの方向を大きく変える大事件が起きます。」

  • シパーヒー
  • イギリスのヴィクトリア女王がインド皇帝に即位

イギリス東インド会社は、独自の軍事力を保持していましたが、その兵士の多くは「シパーヒー」と呼ばれるインド人の傭兵でした。
1857年、このシパーヒーが反乱を起こしたのです。
すると、植民地化によってかつての地位を失った領主や地主、苦しい生活を強いられていた農民や職人なども反乱に加わって、瞬く間に拡大しました。
「インド大反乱」です。
反乱の盟主として、ムガル帝国の皇帝も担ぎ出されましたが、反乱軍は内部対立を起こすなど連携を欠き、あっさりと鎮圧されてしまいます。
ムガル皇帝は廃され、300年以上続いたムガル帝国の歴史が幕を閉じました。

この反乱の後、イギリス東インド会社は統治能力がないと判断されて解散。
インドの統治はイギリス本国が直接行うことになりました。
そして1877年、イギリスのヴィクトリア女王がインド皇帝に即位して、インド帝国が成立しました。

  • エンフィールド銃

マヤ 「反乱のきっかけはインド人傭兵、シパーヒーの蜂起だったということですが、その原因は、やはり植民地化に対する不満がたまって?」

水島先生 「不満自体は、いろいろな要因で徐々に高まってきていたのですが、直接のきっかけになったと言われているのは、軍に新しい銃が配備されたことなんです。実は、これがその銃、『エンフィールド銃』(画像)って言うんですけれども、筒先に火薬を入れないといけません。問題は、この紙ケースなんです。火薬が湿気ないように油紙を使うんですね。その油が、牛と豚の油脂で作られているという噂が流れたんです。」

早紀 「牛はヒンドゥー教徒が神聖視している動物だし、豚はムスリムが食べない動物じゃないですか。」

水島先生 「その通りです。ですから、これを使うことは、シパーヒーたちにとって大変抵抗がありますね。ですから、彼らはこの銃の使用を拒否して、最終的には武装蜂起することになったわけです。
この反乱が、結果的にはムガル帝国を名実ともに崩壊させて、消滅させてしまう。それで、逆にイギリスの支配が確固たるものになると、そういう過程をたどります。」

自由貿易体制下の富の流出
  • アジアの三角貿易(19世紀前半)

水島先生 「東インド会社は、17世紀はじめから極めて長い間続いてきた貿易特許会社だったわけです。それが、インドの統治者として存在していた。言ってみれば過去の遺物。これを廃止して、自由貿易体制が名実ともに完成することになります。」

19世紀前半、イギリスは、中国から大量の茶を輸入して莫大な赤字を抱えていました。
そこで、インドで麻薬のアヘンを作らせて中国に輸出し、貿易赤字を減らすことに成功します。
この「アジアの三角貿易」を独占的に担っていたのが、イギリス東インド会社でした。

  • 1853年に鉄道が開通
  • インドの鉄道網(1868年末)

19世紀後半になってイギリス本国による直接統治が始まると、インドではさまざまなインフラが整備されていきます。
1853年、インドで初めての鉄道が開通。
インドの鉄道網は、植民地支配の拠点となる交易都市と綿花地帯を結ぶように整備されていきます。

  • 1869年にスエズ運河が開通
  • イギリスの電信ネットワーク(1898年)

スエズ運河も開通し、海運網を通じてインドの富を効率よく運び出して世界に輸出する体制が作られていきました。
同じ時期に、電信網も開設されています。
イギリスは、世界各地の植民地を電信ネットワークで結び、迅速な情報伝達を可能にしました。
インドは、イギリスのアジア貿易の拠点として、より重要な役割を果たすことになっていきます。

  • インドをめぐる貿易構造(19世紀後半)
  • 本国費の内訳

マヤ 「インフラ整備といっても、インドのためというよりイギリスの貿易のためですよね?」

水島先生 「そういう性格は強いですね。ただ、インフラが整備されることは、もちろんマイナスだけではありません。例えば、19世紀後半の貿易構造なんですが、インフラ整備によってインドの工業力は、実はある程度維持されます。アジア地域に綿製品を中心とした工業製品を輸出する。ですから、イギリスへの圧倒的な貿易赤字を、インドはそれ以外の地域の貿易黒字で埋めていた。」

早紀 「イギリスの植民地支配は、それほど悪いものじゃなかったってことですか?」

水島先生 「貿易以外のところで、インドからイギリスに対して膨大な富が流れていった。それを、『本国費(ほんごくひ)』と言います。インドが、インドの財政の中からイギリス本国に対して支出すること、支払うことを義務付けられた費用なんです。」

本国費の内訳は、インドの鉄道に投資したイギリス人投資家への利息、インドに駐在するイギリス人官僚への給料と年金、そして、イギリスがインドの権益を守るための戦争の費用などでした。

水島先生 「例えば、ロシアは19世紀に南下政策によって南の方に降りてきたわけですね。それでアフガン戦争とかそういったことが起きてくるわけですが、そういう費用も全部インド側、つまりインドの民衆の税金から支払われました。」

マヤ 「さまざまな名目で搾り取るように、本国費としてインドの富がイギリスに流出していくことになったんですね。」

水島先生 「そうですね。こうした経済的な不満、それだけではなくて統治体制自体への不満も少しずつ出て、それがその後のインドの民族運動につながっていくわけですが、それについては、また別の機会にお話しできればと思っています。」

映画大国インド
  • 映画をきっかけに世界史に興味を持つのもいい方法かもしれません

マヤ 「インドが、映画の製作本数世界一という映画大国だということを知っていますか?
フランスの映写技師によって、ムンバイで初めて映画が上映されたのは、1896年のこと。パリでの世界初の映画上映からわずか7か月半後の興行でしたが、多くのインド人に強い印象を残したそうです。
ミュージカル仕立てで娯楽性が高いことがインド映画の特徴ですが、中にはインド大反乱を題材とした歴史大作も制作されています。“インドのジャンヌ・ダルク”と言われた、戦う王妃ラクシュミー・バーイーが主人公の映画です。
こういった映画をきっかけに世界史に興味を持つということも、いい方法かもしれません。」


それでは次回もお楽しみに!

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