NHK高校講座

世界史

今回の学習

第24回

アメリカ合衆国の独立とフランス革命

  • 世界史監修:東京大学教授 中野耕太郎
学習ポイント学習ポイント

アメリカ合衆国の独立とフランス革命

  • 政井マヤさん
  • 富田早紀さん

ここは歴史の専門家も来店する無国籍雑貨屋。
政井マヤさん、富田早紀さんと一緒に、世界史のおもしろさを探っていきます。

  • アメリカの自由の女神
  • フランスの自由の女神

ニューヨーク湾にそびえたつ自由の女神。
フランスがアメリカの独立100周年を記念して贈ったものです。
そして、パリにある自由の女神。
アメリカ人が、フランス革命に敬意を払い、贈りました。

大西洋をへだてて、女神像は革命の記憶とともに二つの国を結びつけています。
女神像が象徴しているのは、「自由」「平等」。
18世紀末、激しい対立と大きな犠牲を経て、勝ち取った権利です。

アメリカとフランス、二つの革命をみていきます。

  • アメリカ独立時の国旗

早紀 「これ、正式な国旗なんですか?アメリカの国旗に似ているけど。」

マヤ 「そう、アメリカの国旗よ。ただし、アメリカが独立したころに作られたもののひとつなの。」

早紀 「今の国旗と違うような。星が丸くレイアウトされてるし、数も少ないような。」

マヤ 「そうね、今のアメリカの国旗には50の星がデザインされているけど、その国旗には星の数が13。」

早紀 「13って、中途半端な数字ですけど何か意味があるんですか?」

マヤ 「もちろん。13は、アメリカ合衆国建国当初のある数をあらわしているの。」

アメリカ独立革命
  • 13植民地
  • ボストン茶会事件

17世紀、アメリカ大陸へは、イギリスから農地を求めて、あるいは宗教的な迫害から逃れて移住してきた人々がいました。
彼らが北米の東側に建設した13の植民地から、アメリカ合衆国の歴史は始まります。
当時それぞれの植民地では、イギリス本国からの介入は少なく、住民によって自治が行われていました。
しかし18世紀半ば、イギリス議会は財政の悪化を理由に、植民地に対して重い税をかけることを一方的に決めてしまいます。
これに対して、植民地側は反発します。
本国議会に植民地の代表が参加していないのだから、税金を払う必要はないと主張しました。
さらに、イギリス議会は経営難にあった東インド会社に、13の植民地での茶の独占販売権を与えます。
これを自由な経済活動への干渉だと受け取った植民地の商人たちは、東インド会社が運んできたお茶の箱をすべて海に投げ捨てるという「ボストン茶会事件」を起こします。
イギリス本国も港を封鎖するなど対抗。
植民地側は代表が集まった大陸会議で本国との通商の断絶を決議します。
しかし、イギリス本国の強硬姿勢は変わりませんでした。

  • ワシントン
  • トマス・ペイン

ついに翌年の1775年、ボストン郊外のレキシントンで植民地とイギリス軍との武力衝突が起こります。
このとき、植民地軍は総司令官に「ワシントン」を任命。
フランスの軍人「ラ・ファイエット」など各国からの義勇兵も駆けつけ、独立戦争が始まりました。
この独立の機運を後押ししたのが「トマス・ペイン」の著書「コモン・センス」でした。
イギリスから搾取されるのみの植民地は、独立して共和国を建設するべきと主張し、ベストセラーとなりました。
1776年7月4日、植民地側は独立宣言を発表しました。
独立宣言では革命権が盛り込まれたほか、すべての人が平等であること、生命・自由・幸福を追求する権利を与えられていることなどがうたわれました。

戦局は、イギリス軍に対して植民地軍の苦戦が続いていました。
イギリスと敵対するフランス、続いてスペインが相次いでアメリカ独立を支援し参戦すると、形勢は逆転します。
植民地側が勝利を決定づけると、1783年のパリ条約でイギリスはアメリカの独立を承認、ミシシッピ川以東の領土もアメリカに割譲しました。

こうして13の植民地は州として編成され、連邦制のアメリカ合衆国が誕生したのです。

  • 中野耕太郎先生

お話をうかがうのは、東京大学教授の中野耕太郎先生です。

早紀 「アメリカの初代大統領がワシントンだったというのは知っていたんですけど、独立戦争では総司令官だったんですね。」

中野先生 「はい。ワシントンは独立の英雄で、次第に神格化されていきます。そのため、もし彼が望めば、国王にも匹敵する独裁者になれたかもしれません。しかし、イギリスとの講和が成立すると軍の指揮権を返還して、故郷のバージニアに帰ってしまうんです。
ただ、その後ワシントンは憲法制定会議の議長として政治の表舞台に復帰し、その憲法に従って、初代の大統領に選ばれます。」

マヤ 「そんなアメリカがイギリスから独立できた最大のポイントが、フランスの参戦ですよね。なぜ、フランスはアメリカの独立を支援したんですか?」

中野先生 「それはおそらく、フランスが目の敵にしていたイギリスを弱体化させようと。アメリカを独立させることでイギリスに打撃を与えたいということですね。
ところがアメリカが独立したことで、その革命的な思想が大西洋を渡って、フランスにも影響を与えることになります。」

フランス革命
  • ルイ16世
  • アンシャン・レジーム

18世紀後半、アメリカが独立し自由を勝ち取ったころ、その独立を支援したフランスでは国王を頂点とする絶対王政の時代でした。
アメリカの独立戦争を支援したことで、当時のフランスは深刻な財政難に陥っていました。
ルイ16世は、この財政危機を乗り越えるため特権身分からも税金を徴収しようとしますが、激しい抵抗にあいます。
特権身分とは、当時のフランス社会の「アンシャン・レジームと呼ばれる階層の中で、第一身分の聖職者と第二身分の貴族を指します。
彼らは重要な官職を独占し、税金が免除されていました。
第三身分は平民で、人口の9割を占めていました。
豊かな商工業者や大地主もいましたが、その大多数は貧しい農民たちでした。

  • 三部会

特権身分への課税というルイ16世の財政再建案に対して、貴族らは猛烈に反抗し、各身分の代表者による「三部会」の開催を要求します。
しかし、175年ぶりに開催された三部会は、議決方法をめぐって、特権身分と第三身分が対立。
堂々巡りを繰り返すうちに、業を煮やした第三身分は三部会に代わる国民議会を設立。
その目的は、身分制度を否定した憲法の制定でした。

  • バスティーユ要塞襲撃
  • 人権宣言

特権身分は、ルイ16世を動かして武力で国民議会を解散させようとします。
これに民衆が立ち上がりました。
1789年7月14日、パリの民衆は、大量の武器・弾薬が保管されていたバスティーユ要塞を襲撃、武器を手にしました。
「フランス革命」の始まりです。

自由と平等を旗印に、農民らの暴動は全国に広がりました。
こうした暴動の連鎖に、貴族だけでなく国民議会の議員の多くも危機感を持ちます。
彼らは、平民のなかでも裕福な商工業者や土地所有者でした。
混乱を一刻も早くおさめようと、議会は封建的な特権の廃止を宣言します。
税金の平等負担などが決議されました。

さらに議会は、アメリカ独立戦争に参加したラ・ファイエットらの起草による「人権宣言」を採択しました。
この宣言では、自由と平等、三権分立、言論の自由、私有財産の不可侵などがうたわれ、アンシャン・レジームによる特権身分は完全に否定されたのです。

しかし、この人権宣言は、必ずしも国民の多くに支持されたわけではありませんでした。


早紀 「自由と平等をめざして革命が始まったわけですよね。であれば、人権宣言って誰もが理想だと考えて、歓迎するはずじゃなかったんですか?」

中野先生 「確かに身分制を否定し、自由と平等、民主主義の理想を掲げたフランスの人権宣言は、その後の世界の人々が近代化、民主化のお手本にしたものでした。ただ、これはある意味フランス革命の社会不安が広がる中で、政治的に採択された文書でもありました。ですから、当然ながらこれに反発する既得権益者も多くいました。」

マヤ 「それは、いままでの特権身分対平民という構図なんですか?」

中野先生 「それもあります。ただ、貴族の中でも王権に近い宮廷貴族もいれば、旧来の封建制や専制政治に反対する自由主義的な貴族もいます。平民の中でも、裕福なブルジョワジーもいれば、本当に貧しい農民もいます。一概に特権身分対平民という構図では言い表せない複雑な階層社会が存在したわけです。」

そして革命で国内が混乱する中、国王一家は王妃マリー・アントワネットの実家ハプスブルク家を頼って、オーストリア領に逃亡をはかります。

中野先生 「逃げる途中で国王一家だとばれて逃亡は失敗するんですが、このことで国王に対する国民の信頼は失墜してしまうんです。」

  • 王政廃止、共和政の樹立を宣言
  • フイヤン派、ジロンド派、ジャコバン派

このころ、革命の波及を恐れたオーストリア、プロイセンは反革命を支援。
これに対して宣戦布告したフランスは、両国の侵攻を受けます。
戦いはフランスが勝利しました。
しかし民衆は、敵の軍隊が国内に侵入できたのは、国王一家がオーストリアに内通し国を裏切ったからではと疑い、不信感は頂点に達します。
議会は王政を廃止し、共和政の樹立を宣言しました。

当時、議会は3つの派閥で構成されました。
自由主義貴族ラ・ファイエットを中心としたフイヤン派。
商工業者などの代表、ジロンド派。
そして、貧しい農民や社会の下層にいる人たちを代表するジャコバン派です。
中でも、ジャコバン派の勢力が増していた議会は、国民を裏切ったとされる国王の処刑を決め、ルイ16世、マリー・アントワネットは処刑されました。

  • ロベスピエール

そして、貧しい都市の民衆に支持されたジャコバン派の「ロベスピエール」は、急進的な共和政をめざす独裁政治を押し進めます。
反革命派や革命に協力的ではない人たちを次々に取り締まり、処刑台に送ります。
恐怖政治と呼ばれました。
このような政治手法には反発も多く、やがて民衆の支持も失います。
ついにはロベスピエール自身が逮捕され、処刑されました。
フランス社会は、不安定な状態が続きます。

早紀 「すべての人が自由で平等だと宣言しているフランス社会の中で、なぜ人権を無視するような恐怖政治になってしまったんですか?」

中野先生 「この内外の危機的な状況下に権力を掌握したジャコバン派は、戦時の緊急事態であるという名目で非常に中央集権的な体制を敷いて、反革命的とみられる人々を徹底的に弾圧しました。彼らの論理からすれば、民衆を救うためにこそ、暴力的な恐怖政治が正当化されたのだと思います。」

マヤ 「おそろしいパニックの時代だったんだなと思いますが、実際のところフランス革命でどのくらいの人が犠牲になったんですか?」

中野先生 「いろいろな説がありますが、数十万人が命を落としたのではないかと考えられています。でも、これほどの多くの人が血を流したにもかかわらず、フランス社会はまだ混乱の途上にあったわけです。」

ナポレオンの台頭と没落
  • ナポレオン・ボナパルト
  • ナポレオン法典

民衆は、混乱した世の中で秩序を求めていました。
そんな中、人々の注目を集めたのが、軍事的天才「ナポレオン・ボナパルト」でした。
ナポレオンはイタリア遠征やエジプト遠征で指揮官として戦い、国民的英雄となっていきます。
ナポレオンは突如遠征先からフランスに戻ると、クーデターを起こして政権を奪取、統領政府を発足させ第一統領の地位につき、フランス革命の終結を宣言しました。

1804年、ナポレオンは国民投票で圧倒的な支持を受けて皇帝に即位し、ナポレオン1世と名乗ります。
1805年、アウステルリッツの戦いでロシア・オーストリア連合軍を破り、ナポレオンはヨーロッパの大部分を支配します。
しかし、1812年ロシア遠征で敗北。
その2年後には、プロイセンなどの連合軍にも敗れ、パリが占領されました。
ナポレオンはエルバ島に流刑となり、ルイ18世が即位、ブルボン朝が復活します。
その後、ナポレオンはエルバ島を脱出して再度皇帝の位につきますが、ワーテルローの戦いでイギリス、プロイセンの連合軍に敗れ、アフリカ西部沖のセントヘレナ島に流されて生涯を終えました。
生前、ナポレオンは占領地に「ナポレオン法典」を施行し、法の前の平等、信仰と経済活動の自由、私有財産の不可侵などを定め、各国の民法典に大きな影響を与えました。



早紀 「単純に強かった、ということもあると思うんですが、ナポレオンが人気だった理由はほかに何があったんですか?」

中野先生 「ナポレオンは遠征を通じて、革命の理想を各地に広める役割も果たしました。また国内政治では、中央銀行であるフランス銀行を設立するなど、財政再建と集権的な行政機構を整え、ようやく政治に安定をもたらしたのです。」

マヤ 「そんなナポレオンが残した功績のひとつが『ナポレオン法典』ですよね。」

中野先生 「はい。ナポレオン法典は、革命で確立された自由主義、個人主義の原理に貫かれている点が特徴になっています。また、家族の秩序に関する項目もあります。妻や娘に対する夫、あるいは父親の権威を重視する男性中心的な規定が見えると思います。ですから、女性の政治的、社会的な地位の向上は市民革命後の近代に残された大きな課題となっていくわけです。」

マヤ 「せっかく平等や人権っていう概念が出てきても、まだ男性の目線からでしかなかったんですね。」

ベートーベンの「英雄」
  • ベートーベンは、何に憤ったのでしょうか

マヤ 「ベートーベンの有名な交響曲に『英雄』という楽曲があります。もともと、これはナポレオンに捧げるためにベートーベンが書いた曲で、当初のタイトルも『ボナパルト』でした。
しかし、ナポレオンが皇帝に即位したと聞くとベートーベンは怒り狂って、その楽譜に書かれた『ボナパルト』という文字を強く消して、『英雄』とタイトルを書き直したそうです。
一体ベートーベンは、何に憤ったのでしょうか。」


それでは、次回もお楽しみに!

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