ページの本文へ

こうちWEB特集

  1. NHK高知
  2. こうちWEB特集
  3. 【らんまん】なぜ遍路宿? 牧野博士の植物採集と高知の遍路道

【らんまん】なぜ遍路宿? 牧野博士の植物採集と高知の遍路道

  • 2023年09月01日
槙野家の人々と山元虎鉄(右)

朝ドラ『らんまん』に遍路宿「角屋」の息子・山元虎鉄(濱田龍臣さん)が登場。すっかり大人になりましたね!
虎鉄は万太郎とともに高知の植物を採集・研究する相棒ですが、高知に住む私は、「遍路宿」の息子、というところに興味を持ちました。
弘法大師空海ゆかりの札所を巡る四国遍路は、香川・徳島・高知・愛媛の四国を周る全長1400キロにも及ぶ壮大な巡礼の路(みち)です。
この「遍路」を念頭に、実際の牧野博士の高知での植物採集の記録をたどってみると、博士の植物研究と遍路道の歴史の重なりが見えてくるとともに、遍路道が博士の幅広い採集活動を支えたのではないか、という想像をかき立てられたのです。
推測の域は出ませんが、植物採集と遍路道をめぐる思索の旅にしばしお付き合いください。
(高知放送局アナウンサー 千野秀和)

江戸から明治へ 遍路文化の衰退と復興

時代が江戸から明治にかわる「明治維新」において、四国の遍路文化は大きな影響を受けました。
廃仏毀釈(はいぶつきしゃく)」です。
明治新政府は「純粋な神道」を復活させようと1868年「神仏分離令」を発し、神と仏を「分離」するよう命じます。神仏習合のなごりを一切破壊しようという廃仏毀釈の嵐が、全国で吹き荒れました。
このため、四国遍路の札所自体が改められたり、参道に設けられた地蔵尊や灯籠が破壊されたりしたほか、巡礼者も国に帰され遍路という行為そのものに規制がかけられました。それまで各地を治めた藩による保護を受けていた札所は経営難となり、遍路道を行く人も減り、道や札所は荒廃しました。
1897(明治30)年「古社寺保存法」の公布による、伝統を守ってきた古い寺社の価値の再認識や、四国霊場開創1100年を翌年に控えた1913(大正2)年の「四国霊場連合会」結成まで、四国霊場はしばらく苦難の時を過ごしたのです。
さらに言えば、その後の近代化・車社会への変化によって「車遍路」が可能になったことで、かつての「歩き遍路」の道が使われなくなり、1990年代の「お遍路ブーム」が起きるまでその復興を待つこととなりました。

遍路道=牧野博士の植物採集ルートか?

厳しい時代を迎えていた、四国各地の遍路宿。
そのひとつ、今の高知県四万十町窪川にあった旅館「寿美屋(すみや)」。1800年頃、町の中心を通る現国道56号沿いで営業を始めたとされています。その後明治後期~大正期に建て替えられた可能性があり、その後「朝霧旅館」と名をかえて1990年代に閉業するまで、多くの旅行客をもてなしました。

旧・寿美屋(関連の画像含め提供:仙頭ゆかりさん)

「寿美屋」という名前が気になった方がいるかも入れません。
『らんまん』に登場した山元虎鉄の実家は旅館「角屋(かどや)」。読み方は異なるものの、縁を感じてしまいます。
この寿美屋がある場所は「柿木山(かきのきやま)」という地域。いまのJR仁井田駅周辺です。
牧野富太郎博士は1881(明治14)年に高知西部で植物採集を行っています。その記録はさまざまあり、高知県立牧野植物園収蔵の「牧野富太郎行動録」にまとめられています。
それを見ると、

「九月十日  須崎ー久礼ー柿木山 ・・・柿木山ニ至テ宿ス
「九月十一日 柿木山ー平串ー窪川ー小黒川ー佐賀 ・・・佐賀ト云距柿木山六里所乃投宿」

と、植物採集の中、柿木山で宿をとったことが記されています。
当時、寿美屋はこのあたり一帯の土地を持ち、酒屋や工房なども営む大規模な旅館で、唯一の宿と考えられています。牧野博士の実家・岸屋のような大だなだったそうです。

かつて併設されていた造り酒屋の桶

では実際、牧野博士はここに泊まったのか。
現在建物を管理している6代目主人の娘・仙頭(せんとう)ゆかりさんは、こう話します。

「当時の台帳などは残っていないので牧野博士が宿泊したと断言はできません。ただ、ほかの牧野博士の記録には『炭屋に宿泊』と、漢字は違うもののうちの旅館であろう記述もあって、そうではないか、と考えることはできます。
残っている古い旅館の建物からは、賑やかに宿を営んだり酒を造ったりする当時の人々の声が聞こえるようで、当時を伝えるところは手直しして大切にしています。『らんまん』を機にこういう形で注目を集めるのはうれしいです。火鉢に裸電球という素朴な部屋で、牧野博士が植物を仕分けたり地域の人と交流したりしていたのなら、とてもうれしいですね」

博士が高知県西部で植物採集した際、ここを宿にしていたと考えられるのです。

当時を感じさせる裸電球と火鉢

当時は一般の旅行客をはじめお遍路さんも受け入れていたそうで、仙頭さんの叔母が、旅館をたたむまでお接待を続けていました。また、この建物の向かいに暮らす方がいまもお遍路さんのお接待を続けていて、リピーターになっている外国からの方もいるそうです。
今も続くお接待のあたたかさ。当時、博士の支えにもなっていたのかしら。

牧野博士の植物採集を伝えるガイドツアーも開催

土佐ゆかりの植物学者と遍路の歴史ロマン

もう少し、博士の記録を深掘りして、資料に記された経路と地図を照らし合わせてみましょう。
「須崎ー久礼ー柿木山」「柿木山ー平串ー窪川ー小黒川ー佐賀」という博士がたどった経路は今の国道56号と時に重なり、時のその脇の細道をなぞっています。
はじめは「歩きやすい大きい道を通っただけか・・・」と思いましたが、「歩き遍路マップ」※と照らし合わせると、このルートは36番札所「青龍寺(しょうりゅうじ)」から37番「岩本寺(いわもとじ)」を経て38番「金剛福寺(こんごうふくじ)」に至るルートと重なっています!
すべて一致したかは検証のしようがありませんが、目的地に向けて古くから人の行き交う街道を急ぎ、ときに山あいの細いながら巡礼のために整えられた道のはたでじっくり植物に肉薄する、博士の採集旅行の様子が思い浮かびました。
※文化庁「歩き遍路のための四国遍路巡礼マップ」参照 https://www.seichijunrei-shikokuhenro.jp/

牧野博士は、遍路道で新種も発見しています。
1914(大正3)年、高知市の31番札所「竹林寺」がある五台山で発見した植物を「ビロードムラサキ」と命名し、新種と認められました。
苦境にあった四国遍路の道に沿って、牧野博士が高知のフローラ(植物相)を探求し、その文化を支える遍路宿に投宿。その家族が研究をも支えていた。やがて日本の植物学発展と期を同じくして、四国遍路の価値も再認識されていく・・・。
牧野博士の標本や採集旅行の記録には詳細な地名や宿泊先の記載はなく、あくまで想像の世界です。
ただ、「遍路宿の息子・山元虎鉄」という人物のプロフィールを深掘りすることで、土佐に生まれた牧野博士の人生と四国遍路の歴史が重なり合ってともに明るい未来へと進んでいったのだ、という思索の旅は、地元に暮らす私たちにとって、とてもロマンあふれる物語です。

いま、高知をはじめ四国各県の遍路ツアーの中には植物観察を兼ねたものも多くあります。
牧野博士の植物採集の旅や遍路道のように、ぜひみなさんのお近くの道や植物についても、過去にそこを歩いた人々に想像を巡らせながら“再発見”してみてください。

  • 千野秀和

    高知局 アナウンサー

    千野秀和

    2000年入局/ 1976年生まれ
    古い建築物、古美術が実は大好き。らんまんのおかげで翻刻にも興味が・・・

ページトップに戻る