第20回「@北海道奥尻島(2)」
(2020年12月8日放送)
北海道の奥尻島は、平成5年(1993年)7月12日、午後10時17分、マグニチュード7.8の北海道南西沖地震に襲われました。
震源地に近かったため、地震発生からわずかな時間で津波が到達し、死者・行方不明者は198人にのぼりました。
奥尻島を取材したシリーズ2回目は、被災後、復旧復興に携わった元奥尻町役場職員の証言です。
鮮明に残された津波の記憶
当時、奥尻島は、10メートルを超える津波に襲われました。その後、土地のかさ上げが行われ、その上に新たな住居や商店が建てられました。
町は被災から5年後「完全復興」を宣言。
いまは、被害を受けた痕跡はほとんど見当たりません。
当時、復旧復興に携わった方を訪ねました。
奥尻町役場の元総務課長、竹田彰(たけだ・あきら)さんです。
- 中道アナ
- 被災から27年ほど経つわけですが、あのころの光景を覚えていますか?
- 竹田さん
- 忘れませんね。いまでも覚えています。
“バリバリバリという破壊音”
27年前の地震と津波の恐怖を、竹田さんはいまも忘れられないといいます。
両親、妻、子どもと自宅にいた竹田さん。
大きな揺れに襲われた瞬間、津波が町に迫ってくると直感しました。
- 竹田さん
- 1983年に日本海中部地震を経験していました。
「地震=津波」ということで、家族や子どもたちに津波が来るかもしれないから、高いところに逃げようと伝えました。
家族とともに、歩いて高台へ向かった竹田さん。
暗闇の中から、不気味な音が聞こえてきたのを覚えていました。
- 中道アナ
- 印象に残っていることはありますか?
- 竹田さん
- バリバリバリという破壊音ですね。物を壊す音。
船が岸壁に乗り上げて、ぶつかったり壊れたり。
それから、大きい力で家屋をどんどん壊していく。
そういう音を覚えています。
竹田さんは、家族とともに命は守ることはできましたが、その後、発生した火災で自宅を失いました。
最も大きな衝撃を受けたのは、198人という死者・行方不明者の数でした。
島民の命を守るため、万全の対策
多くの顔なじみの人を失った竹田さん。
「島民の命を守りたい」と、津波から命を守る対策を中心になって進めました。
そのひとつ「防潮堤」です。
ところが、整備には、賛成反対、両方の声が聞かれたといいます。
- 竹田さん
- 防潮堤をつくって景観を壊したと非難を受けたこともあります。
だけど当時のリーダーとすれば町民の命を守るんだと、同じような津波が来ても守るんだと、そういう決意でつくったものです。
さらに、港に、巨大な“津波避難タワー”のような施設をつくりました。
長さ164メートル、幅32メートルにわたる「人工地盤」です。
海辺にいる漁業者がすぐに上って命を守ることができます。さらに、高台へ直接つながっていて、より高く避難することもできます。
- 竹田さん
- 当時この港がすごい津波で壊されました。
漁業従事者は、ここで朝から晩まで作業をするんだと。
そういう人のために何か避難するところをつくってくれと要望が出ました。
地元の漁師に、「人工地盤」がもたらす安心感について聞きました。
- 中道アナ
- 漁港に避難設備ができたことを、どう感じていますか。
- 漁師
- この辺りは、11.7メートルの高さの津波が到達しました。何かあればすぐ高台へ上がれる、安心感はあります。
防災設備の老朽化“いまこそ被災地の検証を”
しかし、奥尻島を訪れてみると、被災から30年近くたったいまだからこそ見えてきた課題がありました。
- 中道アナ
- 人工地盤を支える柱の根本、金属が外れていますね。
- 竹田さん
- そうですね。
やっぱり塩害腐食の進度が強いんですね。
設置した後、維持管理費でお金がかかっていきます。
「人工地盤」をはじめ、防災設備の老朽化が進んでいるのです。
国や北海道が負担する事業もありますが、財政が厳しい奥尻町にとって、補修は簡単なことではありません。
最後に、高知に暮らす私たちへ、竹田さんからのメッセージです。
- 竹田さん
- 奥尻をはじめ津波の経験を生かして、街づくりをしていこう、こういう住民意識をもっていこうと、こういうものがすごく大事です。
- 竹田さん
- 検証とか反省とかして、その次のステップとしてこういうものをつくったほうがいい、こういう考え方で進めたほうがいいとか、こういう法律をつくったほうがいいとか、反省して、進んでいったほうがいいと思います。
- 中道アナ 編集後記
- 奥尻島を襲った北海道南西沖地震から27年が経ち、経験した人たちは年々減っています。
竹田さんは「新たな大規模災害が起きると、奥尻島はもちろん、かつての災害は忘れられてしまう」と話していました。
同時に竹田さんは「命を守るための街づくりに、奥尻島などかつての被災地の教訓を生かしてほしい」と話していました。
奥尻島の津波による被災から30年近く経ったいま、命を守るために最善の策としてつくられた防災設備が直面する課題などを踏まえて、今後、高知でどう備えるべきか、考える必要があると実感しました。