北九州大水害から70年
- 2023年07月21日
70年前の6月、いまの北九州市で大雨による土砂災害や洪水で183人の死者・行方不明者が出ました。北九州大水害です。当時を知る人が徐々に減っている中で、記憶の風化が懸念されています。地域の大水害の記憶を、どのように受け継いでいけばいいのか、取材しました。(北九州放送局記者 伊藤直哉)
北九州大水害とは

北九州大水害は1953年(昭和28年)6月に起きました。北九州市が5市合併によって誕生する10年前のことです。数日間に渡って降り続いた大雨による洪水や土砂災害の影響で今の北九州市の全域で8万戸余りが被災し、死者・行方不明者は183人に上りました。九州北部を中心に広い範囲で甚大な被害が出て「西日本水害」とも呼ばれています。

写真提供:北九州大水害を記録する会
当時、特に雨が多く降ったのは6月25日から28日の4日間。門司での降水量は646ミリに上り、九州と本州を結ぶ唯一のトンネルだった関門鉄道トンネルも水没しました。復旧まで2週間以上かかり、九州と本州が分断された状況が続きました。
自宅から間一髪 逃れた姉妹

それから70年。
門司で被災した森下満里子さん(83)に、改めて当時の話を聞きました。
森下さんは、当時中学2年生。山の斜面に建てられた自宅から、兄と一緒に妹の池田洋子さん(78)を助けた時のことを、いまも鮮明に覚えているといいます。
自宅が流されたのは、各地で大きな被害が出た6月28日。この日、森下さんは妹の洋子さんと2人で留守番をしていましたが、山の斜面にある自宅が徐々に浸水していきました。庭に水が流れ込み、はじめは非日常的な光景にわくわくしたといいますが、すぐに「まずい」と感じたといいます。
不安の中、助けを求めようと妹を家に残して家から飛び出した森下さん。自宅のそばを流れる小川にかかる橋を渡ったところで、心配になって戻ってきた兄と出会います。そして、兄と2人で自宅に戻ろうと再び橋を渡ったところで、渡り終えたばかりの橋が増水した濁流に飲み込まれたといいます。
間一髪で、死を免れました。

その後、森下さんは自宅に戻って妹を助け、兄に連れられてなんとか高台に逃げることができました。この日、門司では多くの人が土石流に巻き込まれて犠牲になり、森下さんの中学校の同級生も亡くなりました。

あの時、橋が流れる前に渡ることができて本当によかったと思います。渡れていなかったら妹は亡くなっていると思います。亡くなった方たちには安らかに眠ってくださいということしか言えないですね。もう絶対にこうしたことはないほうがいいですね。
記憶を後世へ

森下さんは、10年余り前から北九州大水害の記憶を語り継ぐ活動を続けています。
ことし6月、小倉北区の市民センターで行われた「語る会」では、大雨で洪水が起きた際に浸水が想定される地域の住民に対して、当時の経験を語りました。

最初に被災者の体験をまとめた紙芝居が上演され、大水害の状況をわかりやすく伝えます。紙芝居には、森下さんがいまにも流されそうな橋を渡る様子も描かれています。
そして紙芝居の後は、さらに詳しい体験について森下さんがみずから語ります。当時の情景を思い出しながら話す森下さんですが、語り部活動を始めた当初は思い出すことがつらく感じることもありました。
それでも、森下さんは、地域で水害の記憶を語り継ぐことで、再び大規模な水害が起きた際に被害を少しでも減らしてほしいと、「語る会」を続けてきました。

語り部の減少
森下さんはことしで83歳。当時を知る人は高齢化が進んでいて、最も多いときで10人いた語り部は、今では森下さん姉妹を含めて3人だけになってしまったといいます。

去年、森下さんたちは、当時の写真や証言をまとめた冊子を発行しました。
およそ40人の被災者の証言に加え、当時の写真もふんだんに使い、水害の際の避難のポイントも整理しました。
森下さんたちは、この冊子を市内の図書館や学校などにおよそ600冊寄贈しました。森下さんは、少しでも多く人に読んでもらい、いざという時の避難につなげてほしいと願っています。

この70年、北九州大水害と同じ規模の災害は起きていないため、油断している人もいるのではないでしょうか。日頃からどこに逃げるか、どうするかということを家族と話し合って、いざという時には逃げてほしいです。命が一番です。
関門トンネル水没
70年前の経験を、いまの防災対策につなげている人たちもいます。北九州大水害で水没した関門トンネルでは、列車の乗務員の機転で、多くの乗客の命が救われました。九州鉄道記念館の宇都宮照信副館長が、いまも語り継がれる当時の状況を教えてくれました。

画像提供:九州鉄道記念館
関門トンネルに、濁流が流れこんだ6月28日。トンネルには、佐世保行きの普通列車が走っていました。乗客は800人。列車がトンネルの出口にさしかかったところ、乗務員が出口の上から滝のように水が流れているのを発見しました。
「このままでは、電気を得るパンタグラフがショートして、列車が停止してしまう…」
列車が止まれば、そのまま水没してしまう恐れもあるなかで乗務員がとっさに機転を利かせたといいます。

脱出に至る流れです。
①水が流れ落ちる出口の前で、列車の前方と後方に2つあるパンタグラフのうち、前方のパンタグラフををおろします。列車は後方のパンタグラフで電気を得て走行を続けます。
②列車の前方が出口を通過すると、すぐに前方のパンタグラフを上げて集電を再開。
③続いて列車の後方が出口を通過する前に、後方のパンタグラフを下げます。
④列車全体が出口を通過したところで、後方のパンタグラフを上げて、ショートを防ぎながらトンネルから脱出することができました。

副館長
ふだんは上げ下げしないパンタグラフを操作するという非常に難しい方法ですが、間違ってショートしてしまったら、トンネル内で立ち往生してしまいます。水がどんどん流れ込む中で、立ち往生した列車から800人もの乗客を歩いて避難させるのは難しく、失敗していたら、多くの命が失われていたかもしれません。

画像提供:九州鉄道記念館
関門トンネルには、この経験から翌年に防水扉が設置さまれました。それ以来、毎年防水扉を閉める防災訓練が行われています。
“いつまた起きてもおかしくない”
北九州大水害のあと、北九州市ではこの70年間、同じ規模の水害は起きていません。
ただ、油断はできません。
福岡管区気象台で気象防災情報調整官を務める堤雅也さんに話を聞くと、5年前に西日本を中心に大きな被害が出た西日本豪雨の時の天気図と比べて解説してくれました。

画像提供:福岡管区気象台
どちらの天気図にも九州付近の似た位置に前線がかかっていて、前線に暖かく湿った空気が流れこむという同じメカニズムで大雨が降ったとみられるといいます。
西日本豪雨の際に、もし前線の位置が異なれば、北九州でも大きな被害が出ていた可能性があり、今後もいつ同じような状況が発生してもおかしくないといいます。
温暖化で危険性は増大
さらに、近年は「1時間に80ミリ以上の猛烈な雨」が降る回数は、以前よりも増えています。温暖化の影響で、上空にため込むことができる水蒸気の量が増えたためだといい、多くの水蒸気が一気に雨として降ることで、猛烈な雨になっているというのです。

堤雅也さん
どこで大雨が降って、どこで災害が起こってもおかしくない状況です。北九州でこの70年間に大規模な災害が起こっていないから今後も起きないということは絶対に言えません。ハザードマップで自宅や職場が安全かどうかというのを確認してください。
取材後記
今回の取材では、森下さんが間一髪で助かることができた話や関門鉄道トンネルの脱出劇など、70年前に起きたできごとを多く知ることができました。
高齢化が進む中で語り継ぐ難しさを感じましたが、私もメディアで働く者として、こうした内容を少しでも多くの人に知ってもらいたいと思いますし、少しでも被害を減らすことにつながることを願っています。