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わたしの旦過市場 みなさんからのお便り 火事から再建へ

  • 2022年04月25日
応援メッセージ、思い出募集中です。

4/19(火)40以上の店舗が焼けたとみられる旦過市場の火事。

NHK北九州では、「わたしの旦過市場」と題し、視聴者の方から応援メッセージ・思い出を募集し放送で紹介しています。

一部ではありますが、こちらでも紹介させていただきます。

 

KDRさん

旦過市場さんでの思い出
ふだん、自主映画制作をやらせてもらっているのですが、
旦過市場さんでも何度もロケをやらせていただきました。
今こそ、改めて、旦過市場さんでご飯をいただいたりしたいと思います。

みえみえさん

わたしの旦過市場
50年前くらいから、母に連れられ、祖父が好きだった「くじら」を買いによく行きました。
和歌山の叔父もクーラーを持って小倉まで、来ておりました。
今では叔父も高齢になり、年に何回かわたしが買いに行き、和歌山まで送っておりました。
わたしにとっては、母や家族との思い出の旦過市場です。
頑張ってください!応援しています。

木村 国子さん

昭和25年、私は小学5年生。戦争の跡が残る終戦後間もない小倉の街。
母と旦過市場へ行った。大きな人のうねりの雑踏の中で、流れに身を任せて、
必要な品々を買い揃えた。母のお手製カバンと編んだ買い物かごはパンパンに膨らみ、
腕力のない私は歯をくいしばった。
そして、お待ちかねの昭和館。こころとからだを緩めて、イスに背を埋めた。
母のホッとした横顔がスクリーンの明るさを受けて、少しばかり輝いて見えた。
今でも、決して忘れることのない、終戦後のたくましい旦過市場。 
被災なさった方も、そうでない方も、全店の一日も早い再開をお祈りしています。

ボックマンさん

わたしの旦過市場の思い出は、遠距離でお付き合いしている女性と
デートでランチに行ったことです。
関東出身の彼女は北九州グルメをたくさん調べて来てくれて、
しめていないサバの刺身に目を輝かせ、名物の大學丼やカナッペを堪能し、
「胃袋をつかまれた」と言ってました。
彼女はこのたびのニュースにもとても悲しんでおり、1日も早く元のにぎわいが戻り、
また二人でランチに行ける日が来ることを願っております。

北九州大好きさん

「わたしの旦過市場」ですが、個人的には「よく旦過市場の前を通る!」ですね。
というのも、プライベートで、よく旦過市場の前を通っているんです。
火災のニュースを見た瞬間、ショックを隠しきれない自分がいました。
一日でも早い復興を、心からお祈りしています。

マー君さん

映画の撮影時、新旦過横丁を舞台にエキストラで参加しました。
時代背景は戦後の飲み屋、呼びこみや酔っぱらいの担当で、夜中の3時まで
ロケが続きました。懐かしいところが火事になり、寂しいです。

福津のまっさんさん

小学校6年生の半ばまで小倉で過ごし、旦過市場には父母によく連れて行ってもらいました。
子どもながらに、市場のにぎわいを感じたものでした。
近頃では、北九州マラソンの際に訪れることがあり、わたしの大好きな場所です。
今後、旦過市場のさらなるにぎわいを願います。

山﨑 悦子さん

わたしが生まれたときから旦過市場がありました。
理髪店を経営している両親に代わり、小学生のころから自転車で旦過市場に行き、
夕飯の材料などを買いにおつかいに行っていました。
顔なじみのお店の方から「おつかい?えらいね」と声をかけられ、
当時は恥ずかしかったことを思い出します。
結婚し地元を離れましたが、元気になった旦過市場にもう一度おつかいに行きたいです!

三輪 修治さん

昭和35、6年ごろ。
祖母が長門市仙崎から朝4時ごろ発の山陰線で門司まで乗って、
そのあと小倉旦過市場まで行き、山陰の缶々部隊で店を出していました。
正午ごろまで干物を売って、また列車で長門市まで帰っていたのを懐かしく思い出します。
旦過市場と聞けば、叔母のことを忘れることができません。

鉄尾 次郎さん

『八十路こえ 手押し車がつえ代わり 旦過のさかな きょうも行く。』
わたしが日頃の母のすがたを感じたままの一句です。

一部ではありますが、NHK北九州放送局に寄せられたメッセージを紹介させていただきました。
投稿いただいたみなさん、ありがとうございました。

メッセージは現在も受け付けています。

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