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美しいロケ地での、ハードな撮影。

ドラマの冒頭シーンを撮影したのは、広大な田園風景が広がるオープンセットでした。早朝に現場に着くと霧靄(もや)がかかっていて、その情景はとても美しく、眺めているといろいろなイメージが湧いてきました。
まわりには電柱など現代を感じさせるものがなくて、そこに立っていると光秀が存在したそのときの感覚が呼び起こされるような、ずっと虚構の世界にいられるような、そんな場所でした。

そこでの野盗たちを追い払うシーンの撮影はなかなか大変でした。出来上がった映像は、いろいろな方向から撮影した映像で構成されていますが、実際は棚田の上から下の米倉まで(ずっとカメラを止めない)ワンカットで撮影しています。走っては斬って、また走っては斬っての繰り返し。人を斬るときは、少し息を吐いて、そして吸う瞬間に息を止めて斬る。それを走りながら何度もやるので、はじめのころは苦しかったです。
とてもハードな撮影でしたが、光秀が生きている時代の日常がどんなものだったのか表現できたシーンになったと思います。

人と人が殺し合う世の中は、
おかしい。

戦国の世は、殺し合いが普段の生活のあちらこちらで行われていて、人の命を奪うという今では考えられないようなことが、当たり前のように起きていた。子どものころからそういう状況の中で生きているとそれが当たり前になってしまいそうですが、池端先生の描く光秀は、日常的に人と人が殺し合う世の中は何かがおかしい、こんな世の中は間違っているとどこかで感じていたように思います。
「四書五経(ししょごきょう)」など中国の書を通して儒教の精神を学んだことも光秀の人間形成に大きな影響を与えたはずです。そんな光秀のものごとに対する捉え方は、当時の人々の中にあって、独特な価値観や感覚をもっていたように感じます。

特徴的じゃないところが、特徴的な光秀の家。

質素だけれど知性と品格が感じられる。それが、光秀の家のセットに入ったときの印象です。『麒麟がくる』で描かれている光秀は、武士としてのたけだけしい面もありますが文化人的な側面もあるように思います。さりげなく置かれた書物や独特な知性を感じさせる庭を見て、光秀は文化的なことにも触れてきた人物なのだと感じました。
これといって特徴的な家ではないけれど、そこが特徴的というか、文武を両立している光秀らしい住まいだと思いました。

声も立ち居振る舞いも道三そのもの。

青年期の光秀に多大な影響をあたえるのが主君である斎藤道三ですが、本木雅弘さんが演じている道三は声も立ち居振る舞いも、まさに道三そのものと思える様相で本当にそこにいて対峙しているように感じられます。
道三としての本木さんと向き合っている中で、ふと撮影の合間などに、普段の本木さんの素顔が見えると「あっ、これが本来の本木さんだ」と驚くほどです。

駒との出会いは、偶然ではなく必然。

京都で出会った駒(門脇麦)の口から“麒麟”の話を聞いたときの光秀には複雑な感情が芽生えたと思います。『そうか、麒麟を呼べばいいのか』という一縷(いちる)の望みのような思いと、『今のような世の中では決して麒麟は現れない』という絶望感。それらの感情が入り混じって、光秀に「何かを変えなければ・・・美濃にも、京にも・・・麒麟は来ない」と言わせたのだと思います。
また、駒に対してはどこか不思議な魅力を感じていると思います。それは言葉では説明できない、直感のような感覚ですが・・・偶然に出会ったのではなく、何か不思議なものに導かれて出会ったのではないか。これは僕の勝手なイメージですが、光秀は駒から何か不思議なもの、特別なものを感じているように思います。

これまでのイメージに縛られない
新しい明智光秀。

『麒麟がくる』の初回放送をご覧になって、「自分が思い描いていた光秀とは違う」、「もしかすると、光秀ってこういう人物だったのかもしれない」など、さまざまな感想をもたれたと思いますが、今回の作品ではこれまでのイメージに縛られない新しい明智光秀像を作っていきたいという思いで臨んでいます。
一人の青年として戦国の世を歩き始めた光秀の物語を楽しんでいただければと思っております。

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