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HISTORY 2022.10.30

『吾妻鏡』 ~第41回より~

脚本の三谷幸喜さんが「これが原作のつもりで書いている」と話されている『吾妻鏡』。この史書には、治承4年(1180)の「以仁王の乱」をはじまりとする鎌倉幕府の歴史が記されています。第41回で描かれた主なエピソードをご紹介します。

建暦3年(1213)5月2日条

三浦義村胤義兄弟は、当初は和田義盛にくみして御所の北門を固めることを誓い、起請文も書いていましたが、のちにそれを反故ほごにしました。

建暦3年(1213)5月2日条

三浦義村胤義兄弟は「先祖より源氏の恩恵を受けてきた。親戚に従って主君に戦いを挑めば、天罰は免れない」と後悔し、北条義時の屋敷に参上して和田義盛が挙兵したことを伝えました。

建暦3年(1213)5月2日条

和田義盛に謀反の疑いがありましたが、けさ起こるとは思わず、北条義時らはゆっくりと構えていたため、御所では特に警固の備えを行っていませんでした。

建暦3年(1213)5月2日条

北条義時から報告を受けた政子御台所(千世)が、御所を離れて鶴岡八幡宮に移りました。

建暦3年(1213)5月2日条

さるこく(午後3時~5時)に和田義盛が一味を率いて、御所を急襲しました。味方したのは、義盛の三男・義秀、四男・義直、五男・義重ら150名。義盛は軍勢を三手に分け、幕府の南門と、北条義時の屋敷、西北の門を囲みました。

建暦3年(1213)5月2日条

御所の西南にある政所の前で、御家人たちが和田義盛の一党を相手に防戦。三浦義村もこれに加わりました。

建暦3年(1213)5月2日条

とりこく(午後5時~7時)に和田義盛の一党がついに幕府の四面を包囲。旗をなびかせて矢を飛ばしました。これに対し、北条泰時朝時らが防戦し、軍略を尽くしました。

建暦3年(1213)5月2日条

朝比奈義秀が惣門を破って御所の南庭に乱入。立て籠もっていた御家人たちを攻め立てると、御所に火を放ちました。このため、御所内の建物は一宇残らず焼け落ちたようです。

建暦3年(1213)5月2日条

北条泰時らの奮戦の前に兵が少なくなり、矢も足りなくなったため、和田義盛の一党が由比ヶ浜まで退却しました。

建暦3年(1213)5月2日条

大江広元が幕府の文書や記録を守るために、政所へ戻りました。

建暦3年(1213)5月3日条

たつこく(午前7時~9時)に西相模御家人である曽我、中村、二宮、河村の一党が和田勢に加わり、陣を取りました。しかし、源実朝花押が記された御教書みぎょうしょが届けられると、皆が源実朝側に味方しました。

建暦3年(1213)5月3日条

再び御所を攻めようとした和田義盛ですが、若宮大路は北条泰時時房の防戦によって突破することができないなど、苦戦をしいられました。この日のお昼になっても激戦が続いていました。

建暦3年(1213)5月3日条

和田義盛がついに討ち取られました。息子・義直を討ち取られたと知り、嘆き悲しんで迷走していたところを討ち取られたそうです。

建暦3年(1213)5月4日条

片瀬川の川辺に和田義盛ら謀反人の首がさらされました。その数は234だといわれています。

建暦3年(1213)5月5日条

謀反を起こした和田義盛の後任として、北条義時侍所別当に就きました。

建暦3年(1213)5月7日条

和田義盛との合戦で勲功のあった御家人たちへ、恩賞が与えられました。
北条義時相模国山内庄
北条泰時陸奥国遠田郡
北条時房上総国飯富庄
三浦義村陸奥国名取郡
三浦胤義上総国伊北郡 ほか

建暦3年(1213)5月21日条

うまこく(午前11時~午後1時)、関東に大きな地震が起きました。音を立てて建物が倒壊し、崖崩れや地割れも発生したようです。

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