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HISTORY 2022.10.23

『吾妻鏡』 ~第40回より~

脚本の三谷幸喜さんが「これが原作のつもりで書いている」と話されている『吾妻鏡』。この史書には、治承4年(1180)の「以仁王の乱」をはじまりとする鎌倉幕府の歴史が記されています。第40回で描かれた主なエピソードをご紹介します。

建暦2年(1212)7月8日条

源仲章の使者が京から鎌倉へ到着しました。先月27日に、焼失した閑院かんいん内裏だいり再建の事始めが行われたそうです。

建暦3年(1213)2月15日条

謀反を企てる者たちの使者となっていた僧が捕らえられ、北条義時のもとへ突き出されました。義時はすぐに事情を源実朝に報告すると、大江広元らと評議を行いました。

建暦3年(1213)2月16日条

僧の白状により、和田義直和田義重和田胤長ら謀反を企てる者たちがあちこちで捕らえられました。首謀者は百三十余人、一味は二百人に及ぶようです。

建暦3年(1213)2月16日条

事件の発端は、信濃の泉親平(親衡)が一昨年より謀反を企て、和田胤長らに声をかけていたことでした。源頼家の遺児(のちの栄実)を将軍とし、北条義時を殺害しようとしたようです。

建暦3年(1213)3月2日条

謀反の首謀者である泉親平(親衡)が筋違橋あたりに隠れているとのウワサがあり、捕縛に向かいました。しかし取り逃し、とうとう親平の行方はわからなくなってしまいました。

建暦3年(1213)3月8日条

和田義盛が御所に参上し、源実朝と対面しました。義盛が謀反人とされた息子・義直義重の処分のことをうれうと、義盛のこれまでの勲功に免じて、二人の罪が許されました。

建暦3年(1213)3月9日条

和田義盛がきょうも御所に参上。一族九十八人を引き連れて、御所の南庭に列座しました。これはおい和田胤長が赦免されるように申請するためです。

建暦3年(1213)3月9日条

和田義盛胤長の赦免を求めますが、胤長は首謀者のひとりであり、特に策謀をめぐらせていたため許されることはありませんでした。胤長は後ろ手に縛り上げられ、一族が列座する前で連れていかれました。

建暦3年(1213)3月17日条

和田胤長陸奥国岩瀬郡に配流されました。

建暦3年(1213)3月21日条

和田胤長の娘・荒鵑(6歳)が、父が遠くに行ってしまったことを悲しむあまり病気となり、ついに亡くなりました。

建暦3年(1213)3月25日条

荏柄えがら社前の和田胤長の屋敷地について、和田義盛が女房を通して「源頼朝様の代より、一族の所領が没収された際に他人に与えられたことはない。私に与えてください」と願い出ました。この件はすぐに聞き届けられ、義盛は喜んだそうです。

建暦3年(1213)4月2日条

北条義時が荏柄社前の和田胤長の屋敷地を拝領しました。和田義盛は不満を抱いたものの、再び事情を訴えることはできなかったようです。

建暦3年(1213)5月2日条

和田義盛の館に軍兵が競って集まりました。

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