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HISTORY 2022.10.16

『吾妻鏡』 ~第39回より~

脚本の三谷幸喜さんが「これが原作のつもりで書いている」と話されている『吾妻鏡』。この史書には、治承4年(1180)の「以仁王の乱」をはじまりとする鎌倉幕府の歴史が記されています。第39回で描かれた主なエピソードをご紹介します。

承元2年(1208)2月10日&2月29日条

<承元2年(1208)2月10日条>
源実朝疱瘡ほうそうにかかりました。とても容体が悪いようです。

<承元2年(1208)2月29日条>
源実朝が回復し、沐浴もくよくを行いました。

承元3年(1209)3月1日条

高野山大塔料所である備後国大田荘の年貢の未納について、寺家から訴えがありました。同地の地頭は、三善康信。審議が行われましたが、高野山の僧と康信の代官との間で口論となり、源実朝がしばらく裁決を待つように命じました。

承元3年(1209)5月12日条

和田義盛は「上総介(上総国国司)に推挙してほしい」と、源実朝へ内々に頼んでいました。

承元3年(1209)5月12日条

源実朝は、和田義盛の上総介への推挙について政子に相談しました。しかし、「頼朝様の代に、受領ずりょうは停止すると決められました。新しい例を作るのであれば、私が口を挟むことではない」と政子が答え、推挙できなかったようです。

承元3年(1209)7月5日条

源実朝が夢のお告げにより、ニ十首の和歌を住吉社に奉納しました。使者となったのは、藤原定家の門弟・内藤知親。この機会に実朝は、建永元年(1206)に習い始めたばかりのころの和歌三十首を選び、添削を受けるために定家へ送りました。

承元3年(1209)8月13日条

内藤知親が京から鎌倉へ戻り、藤原定家に送った和歌も添削が加えられて戻ってきました。また、源実朝の求めに応じて藤原定家が著した歌論書が献上されました。

承元3年(1209)11月4日条

御所の庭で、“切的きりまとの会”(小さな的を矢で射抜く競技)が行われました。

承元3年(1209)11月14日条

北条義時が、長年仕えてきた自身の郎党の中で、手柄のあるものを御家人に準じた扱いにしてほしいと望みました。しかし源実朝は、「それを許せば、子孫の代になって直参を企てるなど、のちに災いを招く」と厳しく答え、義時の要望を退けました。

承元3年(1209)11月20日条

諸国の守護人の怠慢について、国衙こくがの役人から訴えがありました。このため幕府で議論が行われ、守護を終身の職とせず、交代制にして、任期を決めて職務にあたらせる案などが検討されました。しかし、決定には至りませんでした。

承元3年(1209)11月27日条

和田義盛は、上総介(上総国国司)を望んでいたことについて、内々の取り計らいがあり、しばし結果を待つようにと言われ、手をたたいて喜んだそうです。

建暦元年(1211)9月15日条

源頼家の息子・善哉が、鶴岡八幡宮の別当・定暁のもとで出家しました。法名は公暁です。

建暦元年(1211)9月22日条

僧として仏の定めた戒律を受けるために、公暁が鶴岡八幡宮の別当・定暁に連れられて上洛しました。

建暦2年(1212)5月7日条

北条朝時御台所(千世)に仕える女房との間で問題を起こし、源実朝からお怒りを受けました。父・義時から勘当された朝時は、駿河国富士郡へ下向しました。

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