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HISTORY 2022.09.18

『吾妻鏡』 ~第36回より~

脚本の三谷幸喜さんが「これが原作のつもりで書いている」と話されている『吾妻鏡』。この史書には、治承4年(1180)の「以仁王の乱」をはじまりとする鎌倉幕府の歴史が記されています。第36回で描かれた主なエピソードをご紹介します。

元久2年(1205)4月11日条

このところ武蔵国蟄居ちっきょしていた稲毛重成が、北条時政の招きに応じ、従者を率いて鎌倉に参上しました。鎌倉内は騒がしく、近国の御家人たちが群参して武具が整えられているというウワサがあったようです。

元久2年(1205)6月20日条

畠山重保武蔵国より鎌倉に到着しました。これは、稲毛重成の招きによるものだったようです。

元久2年(1205)6月22日条

謀反人を誅殺するため、とらこく(午前3時~5時)に軍兵が由比ヶ浜辺りに向かいました。畠山重保も郎党3人を従えてこれに加わっていましたが、三浦義村らに取り囲まれ、奮戦の末に主従ともに命を落としました。

元久2年(1205)6月22日条

去る19日、畠山重忠武蔵国男衾郡おぶすまぐん(現在の埼玉県小川町、および、嵐山らんざん町の一部)の館をち、鎌倉へと向かいました。

元久2年(1205)6月22日条

畠山重忠が鎌倉に参上するというウワサがあったため、道中で誅殺するようにという沙汰さたが下されました。討伐軍の大将軍を任されたのは、義時でした。

元久2年(1205)6月22日条

嫡男・重保が誅殺され討伐軍が迫っていると知った畠山重忠は、「梶原景時は館に撤退して途中で殺された。それは命を惜しむようであり、企てがあったようにも思われた。このように推察されては面目がない」と郎党に語り、戦いに身を投じました。

元久2年(1205)6月22日条

畠山重忠軍の奮戦により、時間が経過してもなかなか勝負がつきませんでした。しかしさるこく(午後3時~5時)も終わろうとするころ、愛甲季隆の放った矢が重忠を射抜き、重忠は戦死。事態は収まりました。

元久2年(1205)6月23日条

鎌倉に帰還した義時は、父・北条時政に「畠山重忠の弟や親類のほとんどは他所よそにおり、戦場に赴いたのはわずか百余人でした。謀反を企てたという疑いは偽りであり、とてもあわれです。悲涙を抑えることができませんでした」と語りました。

元久2年(1205)6月23日条

稲毛重成が誅殺されました。このたびの合戦は、親族の縁をひるがえした“重成の謀略”が発端でした。

元久2年(1205)6月23日条

鎌倉へ向かう途中で不慮の死を遂げた畠山重忠。彼の死を悲嘆しない者はいなかったそうです。

元久2年(1205)7月8日条

畠山重忠くみしたものたちの所領が、勲功のあった者に与えられました。恩賞の沙汰を行ったのは政子源実朝がまだ幼いため、このような差配となったようです。

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