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HISTORY 2022.07.24

『吾妻鏡』 ~第28回より~

脚本の三谷幸喜さんが「これが原作のつもりで書いている」と話されている『吾妻鏡』。この史書には、治承4年(1180)の「以仁王の乱」をはじまりとする鎌倉幕府の歴史が記されています。第28回で描かれた主なエピソードをご紹介します。

正治元年(1199)6月30日条

源頼朝の娘・三幡が亡くなりました。母・政子は悲嘆し、周囲の人間の悲しみは記しきれないほどだったそうです。

正治元年(1199)6月30日条

三幡の乳母夫めのとである中原親能が、彼女の死を悼み出家しました。

正治元年(1199)7月26日条

源頼家安達景盛めかけである美女を御所に召し、今後は御所に住むように指示しました。これは、頼家が彼女を非常に寵愛ちょうあいしていたためです。

正治元年(1199)8月19日条

妾のことについて、安達景盛源頼家を恨んでいるという訴えがありました。

正治元年(1199)8月19日条

訴えられた源頼家は、安達景盛誅殺ちゅうさつを命じました。しかし、政子景盛をかばい、「景盛は信頼が厚く、頼朝が特に情けをかけていた。誅殺すれば必ず後悔するでしょう」と頼家を諭しました。

正治元年(1199)10月25日条

結城朝光が御所内で、「忠臣は二君に仕えずという。私は頼朝様に特にご恩を賜っており、遺言により出家遁世とんせいしなかったことを非常に後悔している」と語りました。

正治元年(1199)10月27日条

結城朝光の「忠臣は二君に仕えず」という発言に対し、梶原景時頼家に対する背信と断じ、御家人たちを引き締めるためにも断罪すべきだと進言しました。このことを阿波局(実衣)が結城朝光に伝えました。

正治元年(1199)10月27日条

梶原景時によって誅殺の危機にある結城朝光を救うためには、特別な計略がなければ難しいと答えた三浦義村が、景時に不満を持つ御家人たちによって連署の訴状を作り、鎌倉殿に訴えることを提案しました。

正治元年(1199)10月28日条

千葉常胤三浦義澄畠山重忠比企能員らが賛同した梶原景時を糾弾する訴状を、和田義盛三浦義村が持参し、大江広元に渡しました。

正治元年(1199)11月10日条

梶原景時を訴える連署の書状を受け取った大江広元は、頼朝に忠節を尽くした景時が罪に問われるのは不憫ふびんであり、和平への道を探るべきだと考え、源頼家に訴状を渡すのをためらっていました。

正治元年(1199)11月10日条

梶原景時を訴える訴状を源頼家に渡すことをためらっていた大江広元に対し、和田義盛が「景時を怖れているのか」と一喝。「鎌倉殿に渡すのか、渡さないのか、今はっきりと返答しろ」と迫りました。

正治元年(1199)11月13日条

梶原景時は自身を訴えた御家人たちの訴状に対して弁明することができず、子息や親類らを率いて相模国一宮に下向しました。

正治2年(1200)1月20日条

梶原景時が子息を伴い、所領である相模国一宮をちました。景時は上洛するつもりだとウワサされていたようです。

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