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HISTORY 2022.05.22

『吾妻鏡』 ~第20回より~

脚本の三谷幸喜さんが「これが原作のつもりで書いている」と話されている『吾妻鏡』。この史書には、治承4年(1180)の「以仁王の乱」をはじまりとする鎌倉幕府の歴史が記されています。第20回で描かれた主なエピソードをご紹介します。

文治2年(1186)3月1日条

源頼朝の命により、義経愛妾あいしょう静御前が京から鎌倉に到着しました。

文治2年(1186)3月22日条

静御前に対する尋問が行われました。源義経の居場所は知らないと言い張ったままだったそうです。また、義経の子を身ごもっており、出産後には京へ帰るように指示がありました。

文治2年(1186)4月8日条

源頼朝政子が鶴岡八幡宮に参詣さんけいし、静御前の舞を観覧。工藤祐経が鼓を打ち、畠山重忠が銅拍子を担当しました。静御前の華麗な舞によって、八幡宮一帯が壮観なものとなったそうです。

文治2年(1186)4月8日条

静御前の舞を見た源頼朝は「義経を慕い、別れの曲を歌うとはけしからん」と不満を漏らしますが、これを聞いた政子は「長年の関係を忘れ、義経を慕わないのであれば淑女ではない」と弁明し、静御前を称賛したそうです。

文治2年(1186)閏7月29日条

静御前が男子を出産しました。源頼朝によって男子であれば命を絶つと決められていたため、義経静御前の息子は、幼くしてこの世を去ることになりました。

文治3年(1187)2月10日条

源義経はさまざまなところに隠れ住み、何度も追捕使ついぶしの追及を逃れてきましたが、とうとう藤原秀衡を頼って奥州へ向かいました。妻室や子供を伴い、みな山伏や稚児童ちごわらわの姿に変えていたそうです。

文治3年(1187)10月29日条

この日、藤原秀衡陸奥国平泉の館で亡くなりました。死期が迫った秀衡は、義経を大将軍として国務に当たるように、息子・泰衡らに遺言したそうです。

文治3年(1189)閏4月30日条

陸奥国藤原泰衡源義経を襲撃しました。これは一つには勅諚、もう一つには源頼朝の命に従ったためです。

文治3年(1189)閏4月30日条

藤原泰衡の襲撃に対し、源義経家人らが防戦しますが、すべて敗北。義経は(衣河館の)持仏堂に入ると、まず妻と娘を殺し、次いで自害したそうです。

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