HISTORY 2022.05.08
『吾妻鏡』 ~第18回より~
元暦2年(1185)1月6日条

この日、源範頼が昨年11月14日に出発させていた飛脚が、ようやく鎌倉に到着。「兵糧が欠乏しているため武士たちの心が一つにまとまらず、本国を恋しく思い、多くの者が逃げ帰りたいと思っている」と、厳しい状況を伝えました。
元暦2年(1185)1月12日条
元暦2年(1185)1月12日条

豊後国の臼杵惟隆とその弟・緒方惟栄が源氏に対する思いを持っているという情報が入ったため、彼らを味方に付けて九州に渡り、平家に攻勢をかけるという評定がなされました。
元暦2年(1185)3月24日条
長門国赤間関の壇ノ浦の海上において、源平両軍が激突。午の剋(午前11時~午後1時)になって平家方の敗戦が濃厚となると、二位尼が宝剣とともに入水しました。


元暦2年(1185)4月11日条

源頼朝が父・源義朝の菩提を弔うために建立した勝長寿院(南御堂とも)の立柱の儀が行われましたが、この間に西国から飛脚が到着し、平家を討ち滅ぼしたことが報告されました。
元暦2年(1185)4月21日条
梶原景時の飛脚が鎮西から鎌倉へ到着。書状には、平家との合戦の経過とともに、「鎌倉殿の御意向に背いているとたびたびいさめたが、義経は勝手な振る舞いを改めなかった」と、義経の不義に対する訴えが記されていました。


元暦2年(1185)5月15日条
源義経の使者が鎌倉に到着。「平宗盛・清宗父子を連れて参上しました。去る7日に出京し、今夜は酒匂駅(現在の神奈川県小田原市酒匂付近)に着くところ。明日、鎌倉に入る予定です」と連絡がありました。

