HISTORY 2022.05.01
脚本の三谷幸喜さんが「これが原作のつもりで書いている」と話されている『吾妻鏡』。この史書には、治承4年(1180)の「以仁王の乱」をはじまりとする鎌倉幕府の歴史が記されています。第17回で描かれた主なエピソードをご紹介します。
源頼朝が自身を誅殺するつもりだと知った源義高は、計略をめぐらし、この日の暁に鎌倉を脱出しました。その時、義高は女房の姿になりすましていたようです。
海野幸氏は源義高と同年で、日夜、義高の座右に仕えて片時も離れることがなかったようです。義高の窮地に際して、幸氏は身代わりとなって寝台に入り、義高を逃がしました。
藤内光澄が鎌倉に帰参し、入間河原(現在の埼玉県狭山市入間川付近)において、源義高を誅殺したことを報告しました。
武田信義の嫡男・一条忠頼が野望を抱いているとのうわさを察した源頼朝が、忠頼を誅殺することを決断。夕方になって忠頼を召し出し、御所の中で誅殺しました。
一条忠頼の誅殺は、工藤祐経が討手と決められていました。しかし、重大事を前に祐経の顔色が変わり、ほかの御家人の手により忠頼は誅殺されました。
藤内光澄が梟首きょうしゅされました。これは、去る4月に大姫が慕う源義高を討ち取った光澄に対し、政子が憤慨したためです。
源義経の使者が鎌倉に到着し、「去る6日に左衛門少尉さえもんのしょうじょうに任じられ、検非違使けびいしの宣旨せんじを賜りました。後白河法皇が朝恩と仰せられたので、固辞することができませんでした」と報告したようです。
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