HISTORY 2022.02.06
脚本の三谷幸喜さんが「これが原作のつもりで書いている」と話されている『吾妻鏡』。この史書には、治承4年(1180)の「以仁王の乱」をはじまりとする鎌倉幕府の歴史が記されています。第5回で描かれた主なエピソードをご紹介します。
兵を送り出した源頼朝は館の縁側に出て、放たれた火により敵陣から煙が上がるのを待っていました。
源頼朝は、山木兼隆の縁者である中原知親を土地の人々を悩ませていたと断じ、知親の所領を取り上げました。
世情が落ち着くまでの間、身の安全を図るため、政子らが伊豆山権現の文陽房覚淵のもとへ向かいました。
源頼朝の一党が相模に向けて出陣しました。ちなみに、以仁王の令旨りょうじを御旗の横上に付けていたそうです。
三浦党が大庭景親の一族の館に火を放ちました。これを知った景親は軍議を行い、黄昏時たそがれどきではあるが三浦党が合流する前に敵をたたくことを決断。石橋山の頼朝の陣に襲いかかりました。
大庭景親率いる平家方に追い詰められた源頼朝は、髻もとどりの中から正観音像を取り出し、巌窟がんくつに安置しました。理由を問う土肥実平に頼朝は、「自分が討たれた際にこの本尊を見れば、後々まで非難されるだろう」と答えています。
再起を図るため、箱根湯坂を経て甲斐へと向かう北条時政・義時父子。一方、宗時は早河(現在の神奈川県小田原市)あたりで伊東祐親の軍勢に囲まれ、討ち取られました。また、工藤茂光も亡くなりました。
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