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ドストエフスキー生誕200年

石川 一洋  解説委員

19世紀ロシアの大作家ドストエフスキーが生誕して、今月で200年を迎えました。
21世紀の今、ドストエフスキーの作品はどのような意味を持っているのでしょうか。
罪と罰、カラマゾフの兄弟などドストエフスキーの作品は古典としてでなく、現代においても人間の存在や生きることの意味と問い続ける作品としてて読み続けられています。
ロシアと日本の代表的な研究者のインタビューを通じて現代におけるドストエフスキーの意味を考えます。石川一洋解説委員です。

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Q生誕200年ということでロシアも再びドストエフスキーへの関心が高まっているのでしょうか。

Aドストエフスキーは今でもロシアで最も読まれる作家の一人です。
生誕200年にあたる11日、全面的に改修されたモスクワのドストエフスキーの家をプーチン大統領は訪れました。ロシアテレビはメインニュースのトップで伝えています。
ロシアテレビキャスター「今日は世界中で生誕200年が祝われています。ロシアにとっては特別な日です」
この訪問の中でプーチン大統領は「ドストエフスキーは我が国の自由主義者を好きでなかった」と述べたと伝えられています。そして「ドストエフスキーは偉大な思想家で愛国者だった」と記帳しました。

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ドストエフスキーが作家として生きた19世紀後半、専制的な体制を続けたロシア帝国も変革の波に大きく揺さぶられました。ヨーロッパを目指すべきだという自由主義とロシア独自の道を尾という保守伝統主義が鋭く対立しました。ドストエフスキーも論壇で活発に発言して、「大地に根付かない根無し草」と自由主義を批判して、どちらかと言えば保守主義に近い立場を取りました。
プーチン大統領は今、欧米のリベラリズムに対してロシアは自らの伝統を守る主権主義の色彩を強めています。ドストエフスキーの保守主義者としての側面を強調したいという本音が現れたようにも思えます。

Qプーチン大統領と同じような受け止めをロシアの人々はしているのでしょうか?

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それはどうでしょうか。ドストエフスキーの小説の登場人物は名もなき「小さき人々」です。ドストエフスキーは一人一人の小さき人々が存在する意味を示してきました。

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ロシアにおけるドストエフスキー研究の第一人者といわれる世界文学研究所のタチアーナ・カサトキナさんは、長年、ロシアとイタリアで、若者とドストエフスキーの読書会を開いてきました。
現代社会の中で時に無力感を感じる若者たちにドストエフスキーは具体的な答えを示してくれると話しています。
カサートキナさん「若者にとって重要なのは自分たちが世界を変えられると感じることです。ドストエフスキーは“世界を変えようと思うならまず自分を変えよう”と答えを与えているのです。我々は周囲を変えたいといいますが、自分自身を変えようとは思いません。世界を変えるもっとも重要なのは自分自身だとしているのです。(小さき人々を同情の対象として考えていた)同時代の偉大な批評家たちとは異なり、ドストエフスキーは「小さき人々」はそれぞれが偉大であると考えていました」

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つまりドストエフスキーはあたかも巨大な体制、時代、社会を前に無力とも思える「小さき人々」が実は翻弄される対象ではなく、変化を起こす主体となれると示していたということです。

Q一人一人が無力ではないというのがドストエフスキーのメッセージだというのですね?

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Aそれが今の若者たちに響くとカサートキナさんは言います。カサートキナさんなどロシアの学者は、ドストエフスキーの思想というものをとても大事にしています。ドストエフスキーは敬虔な正教徒で、思想家で、ある面では神学者でもあると考えています。ドストエフスキー自身は確かにプーチン大統領の言うようにリベラリズムを批判する保守思想家でした。ただ若いころにドストエフスキーは、社会を変えようと思う理想主義の運動に加わり、そのため死刑判決まで受けて死刑執行の直前に恩赦されました。個人が変わることによって世界を変えることができるというドストエフスキーのメッセージは、作家にとっては神に気が付くべきだということなのかもしれませんが、若者にとっては社会変革の思想につながる側面もあるように見えます。ドストエフスキーはその保守的な思想にもかかわらず、体制にとっては今も社会変革につながりうる居心地の悪い作家という面もあるでしょう。

Qドストエフスキーと言いますと重たい、長いという印象もあって、敬遠されるところもあるように思いますが

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Aでも小説としても面白いと思います。東京大学名誉教授でドストエフスキー研究家の金沢美知子さんは、長年新宿の朝日カルチャーセンターで、「罪と罰」を原書で読む授業を続けています。原書で時間をかけてテキストを読むことで小説としてのドストエフスキーの面白さを読者ととともに分かち合うことが目的です。

読者「自分で人生を生きてみないと本当の意味で本質にたどり着けないというのが一番学んだ」
読者「こういう世界があるんだ。人間の心はこれだけ謎が深いものなんだ」

文学少女のころからドストエフスキーの小説の面白さにひかれた金沢さんはじっくりと読書に浸ることで若い人にもその面白さを知ってほしいと話しています。

金沢さん
「錯綜しているところが面白い。簡単に出口にたどりつけない。例えば罪と罰も筋は簡単な話ですよね。主人公のラスコリニコフが老婆を殺して自白する、それもそんなにもたなかったですよね。まるでホップステップジャンプみたいな話です。でもその中で夢を見たり、心の迷いを感じたり、その中で長く彼と一緒に過ごすことで違った時間を過ごすことができる。長ければ長いほど楽しかった。簡単でないところが楽しかったのですね。」
「彼小説家なんですよね。彼は思想ではなく思想を語る登場人物を描いている。彼は殺人鬼も描いているし、テロリストも描いている。でもそれは罪と罰を描いているのではなくそういうことを体験している人間を描いている。ドストエフスキーは出てくる登場人物、あらゆる登場人物に愛情を抱いているのではないか」

Q登場人物とじっくり時間をかけて一緒に体験することで小説の意味や面白さが分かってくるということなのですね。ドストエフスキーは現代のロシアの言論界にも影響を与え続けているのでしょうか

Aロシアでは文学とジャーナリズムにおいて「小さき人々」というジャンルがあります。今年のノーベル平和賞を受賞したムラトフさんのノーバヤ・ガジアタもまさに「小さき人々」というジャンルでのルポを発表し続けていますし、ノーベル文学賞を受賞したロシア文学者、ソルジェニーツィンやベラルーシのアレクセービッチも小さき人々の名作を残しています。忘れられ、虐げられ、もがき苦しむ「小さき人々」に焦点をあてて、限りない同情を注ぎ、社会問題を抉り出したり、救いを見出したりする独特の分野です。ドストエフスキーは「小さき人々」と言うジャンルを確立した作家といえるのです。たとえば作家の日記の中で親と社会によって虐待される子供の問題を連続して取り上げ、想像力を使って「キリストのヨルカに召されし少年」という作品に昇華させています。ドストエフスキーは今のロシアのジャーナリズムに影響を与えており、人間を愛した偉大なヒューマニストだといえるでしょう。

(石川 一洋 解説委員)


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