NHK 解説委員室

これまでの解説記事

奈良 キトラ古墳 壁画発見から40年 調査成果は? 保存は?

高橋 俊雄  解説委員

m231107_01.jpg

奈良県明日香村にあるキトラ古墳で壁画が最初に確認されてから40年。この間、さまざまな壁画が確認された一方で、壁画の傷みも明らかになり、保存の難しさに直面しました。
壁画の全容と保存の経緯について解説します。

■ファイバースコープを入れてみると

m231107_06.jpg

キトラ古墳は奈良県明日香村にある直径14メートルほどの丸い形をした古墳で、西暦700年前後、飛鳥時代の終わりごろに築かれたと考えられます。
明日香村では1972年、高松塚古墳で「飛鳥美人」などで知られる極彩色の壁画が見つかり、「飛鳥ブーム」が巻き起こりました。こうした中、「高松塚と似たような古墳がある」という地元の人の情報をもとに、1983年11月7日、飛鳥古京顕彰会という村の歴史愛好者の団体が専門家の立ち合いのもと調査を行いました。
この時は発掘調査を行ったわけではなく、かつて盗掘の際に石室に開けられた穴からファイバースコープを入れて中の様子を探りました。
その結果、北壁にぼんやりと映し出されたのが、亀と蛇が絡み合った姿をした「玄武」です。
この時代の極彩色の古墳壁画としては、高松塚に次いで2例目の発見となりました。

■極彩色の壁画 相次ぐ発見

m231107_10.jpg

その後、1998年には明日香村が小型カメラを入れ、東壁の青龍と西壁の白虎、さらには天井の天文図を確認しました。
続いて2001年、それまで撮れなかった石室の南壁を撮影したところ、今にも飛び立とうとする赤い鳥、朱雀が描かれていました。
同じ年の別の調査では、十二支の動物を人に似せて描いた十二支像の「寅」が確認されました。いずれも石室の中に人は入らず、調査の精度が上がるにつれて内部の様子が次々に明らかになってきたのです。

m231107_17.jpg

石室内部は、奥行き2.4メートル、幅1メートル、高さ1.2メートルほどの大きさです。壁画はこの狭い空間の中に描かれていました。
最初に見つかった玄武は北壁の上のほうに描かれていました。ここから時計回りに、東壁に青龍、南壁に朱雀、西壁に白虎があります。これらは「四神(しじん)」と呼ばれる霊獣です。中国の思想に基づく方角の象徴で、その方角を司る守り神と考えられています。
その下には十二支像。子・丑・寅の順に、各壁に3体ずつ描かれたと考えられます。このうち5体が当初の調査で確認され、その後さらに4体の存在が明らかになっています。
天井には東アジアで最古とされる、本格的な天文図。太陽と月も表現されています。
壁画は中央に置かれたひつぎを取り囲むように描かれ、時間や空間に関する理想の姿を二重三重に表現していると考えられます。
日本の古代絵画史を考える上で不可欠だとして、その後国宝に指定されました。
四神は高松塚と共通するモチーフですが、キトラには高松塚の「飛鳥美人」のような人物像はありません。反対に高松塚には十二支像が描かれていませんし、天文図の表現も大きく異なっています。

■どんな人が埋葬された?

m231107_22.jpg

キトラ古墳の石室内では壁画の修理に先立って発掘調査が行われ、このとき見つかった歯や人骨を鑑定しました。その結果、歯のすり減り具合や骨の形から、埋葬された人物は「40代から60代の男性の可能性が高い」という結果が出ました。
古墳が作られた時期は、西暦700年前後。律令と呼ばれる法律や官僚組織が整備され、国家としての骨組みが造られていく時期にあたります。キトラ古墳に葬られた人物は「この時期に亡くなった皇族や高級官僚の男性」という考えが成り立つわけですが、具体的な人物の特定には至っていません。

■壁画を石室の外に
キトラ古墳で調査が進むにつれて明らかになったのが、壁画の傷みです。

m231107_25.jpg

例えば西壁の白虎は、頭や胴体の部分などが下地の漆喰(しっくい)ごと浮き上がっていました。このまま放置しておけば、地震の揺れなどで落下してしまいかねません。このため文化庁は調査研究委員会を設けて保存方法について議論し、壁画を取りはずして外に出すという判断をしました。

m231107_35.jpg

作業は2004年から始まりました。日本画などの修復技術者が交代で中に入り、壁画を養生したうえで慎重に取り外していきました。
とはいえ幅1メートルの狭い空間で湿度はほぼ100%。さらに壁画の状態は一様ではなく、その都度方法を検討する必要に迫られました。例えば白虎は大半が浮き上がっている一方で、前足の部分はしっかりと壁に密着しています。そこで浮いている部分を先に外し、そのあと時間をかけて前足の部分をはがしていきました。
取り外した壁画片は余白部分を含めて1143。6年以上かけて、すべてを外に出しました。

石室から出された壁画は、下地の漆喰の強化や微生物による汚れの除去を行いました。また、絵のない部分も含めてつなぎ合わせ、4つの壁と天井をできるだけ元の姿に戻していきました。
2016年には古墳のすぐそばに専用の保存管理施設が完成し、保存とともに公開が可能になりました。年に4回、期間を決めて一般公開が行われています。

■保存の難しさに直面

m231107_41.jpg

キトラ古墳の40年は、前半と後半でずいぶん位置づけが変わっています。
人が石室に入らずに調査を行い、壁画が次々と確認されたのが前半です。
しかし壁画の傷みが激しいことが分かり、石室内ではカビも発生しました。そこで人が入って壁画が落ちないようにする応急処置が行われ、壁画が外に出されました。後半は「保存の難しさに直面した20年」と言えると思います。

保存の難しさに直面したのは、高松塚古墳も同じです。
高松塚の壁画は現地で保存することになり、その後、文化庁などが修理や点検を行ってきました。しかし断続的にカビが発生して壁画の劣化が進み、石室の石ごと取り出して壁画を修理するという方針が決まりました。その結果、2007年に石室が解体されて別の施設に移され、修理が行われました。
壁画を石ごと外に出したのは、現地では劣化対策が難しいうえキトラに比べて漆喰がもろく、はがし取るのも困難と判断されたからですが、特別史跡である古墳の姿を大きく変えてしまうことから、反対意見も出されました。
また、こうした深刻な事態に至るまで、保存修理作業が現場任せになっていたことや、劣化の状況を率直に伝えてこなかった文化庁の姿勢も厳しく問われました。

キトラ古墳と高松塚古墳は造られた時代背景や壁画のモチーフなど共通点が多いだけでなく、方法は異なるものの壁画を外に出して修理するという同じような道をたどりました。
2つの古墳壁画は、文化財保存の難しさや、理想と現実のギャップを浮き彫りにしているように思います。

■どのように後世に伝えるか
文化財保存の大原則は、「現地保存」です。キトラも高松塚も、壁画を外の施設で保存している現状は「当面」の措置とされています。つまり将来、壁画を再び古墳に戻すことを断念しているわけではなく、その可能性を探っていくことになります。
とはいえ、そのためにはカビなどの被害に遭わないための万全の方策が欠かせませんし、公開についても制約が大きくなるので、今後も幅広い議論が必要です。
壁画の保存に「これで終わり」ということはありません。どういう形で後世に伝えていくのがよいか、多くの人に関心を持ってもらいながら、よりよい方法を考え続けていくことが大切だと思います。


この委員の記事一覧はこちら

高橋 俊雄  解説委員

こちらもオススメ!