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「産業遺産 どう残し活用する?」(みみより!くらし解説)

高橋 俊雄  解説委員

主に明治時代以降の近代化や戦後の技術の進化を今に伝える実物の資料「産業遺産」。この産業遺産に関わる発掘調査が今、東京で進められています。明治時代の鉄道に関する遺構が残りのよい状態で見つかり、さまざまな実像が明らかになってきました。

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【鉄道開業時の築堤が目の前に】
現場は東京・港区のJR山手線、高輪ゲートウェイ駅のすぐ西側。見つかったのは、今から149年前、明治5年に日本で初めて新橋・横浜間で鉄道が開業したときに造られた「高輪築堤」と呼ばれる堤の跡です。石積みの上に線路が敷かれていました。

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高縄築堤は、海岸線に沿うように2.7キロにわたって海を細長く埋め立てて造られました。その一部が目の前に現れたのです。

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当時の錦絵に描かれたものと同じ構造の橋の土台も見つかっています。「第7橋梁」という橋が架かっていた場所です。表面に石を貼っている様子などが、非常によくわかります。
さらに、信号機があったと見られる場所も見つかっています。石積みののり面から海に突き出すようにせり出した、幅3メートルほどの四角い形の石積みの遺構です。木製の基礎も残されていて、信号機があったと考えられているのです。
高輪築堤はイギリス人技師の指導のもとで作られましたが、作業に当たったのは、江戸時代の石垣など日本の伝統技術を持った職人です。まさに技術の「和洋折衷」がうかがえる遺構で、考古学や産業史の専門家の間で「日本の近代化を象徴する遺跡だ」と高く評価されているのです。
この一帯はその後埋め立てが進み、築堤は拡幅された線路の下に埋もれていました。それが、再開発にともなって線路を動かしたところ、姿を現しました。

【一部保存の方針示す】

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高輪築堤は、再開発工事の現場で確認されました。ここではJR東日本が5500億円をかけて、4棟の高層ビルなどを整備する予定です。これまでの調査で、築堤は現場を貫くようにおよそ800メートルにわたって確認されています。
JR東日本は、第7橋梁を含む場所と、その北側の区域について、遺構を部分的に残す方針です。
JR東日本によりますと、現地保存を行うにはビルの設計変更などが必要で、現在示している部分だけでも300億円から400億円の追加費用が見込まれるということです。保存の範囲をさらに広げると開発自体が成り立たなくなるとしています。
一方、日本考古学協会は、「関係する専門家や幅広い市民の意見を聞いて検討すべきだ。拙速な判断をするべきではない」と強く訴えています。

【保存と開発の両立を図るには】
開発の対象となりやすい都市部の文化財を保存するには、さまざまな困難が伴います。それだけに、「知恵と工夫」が不可欠となります。
その場所の歴史を多くの人に身近に感じてもらうために、文化財を街づくりに取り込むさまざまな方法を考えることが、保存の範囲を少しでも広げつつ、開発との両立を図ることにつながるのではないかと思います。

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鉄道ができたときの起点「旧新橋停車場」とJR東京駅の丸の内駅舎は、いずれも文化財の保護を図りつつ、人々が当時の鉄道に思いをはせることができる場所になっています。
旧新橋停車場の今ある建物は平成15年に再建された駅舎で、鉄道の歴史をたどる展示施設が設けられています。この下にある当時の遺構は国の史跡に指定され、一部を見学することができます。高輪築堤はここを発着する列車が通る場所ですから、連動したPR活動などもできると思います。
東京駅の丸の内駅舎は大正3年に建てられ、重要文化財に指定されています。戦後、高層化の計画が持ち上がったこともありましたが、その後も保存され、平成24年には開業当時の姿にリニューアルされて人々に親しまれています。

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今回見つかった「高輪築堤」は東京駅などと同じように、JR東日本にとっては鉄道事業のルーツにあたる場所です。その歴史をどのように伝えていくのか、十分検討してほしいと思います。

【YS11を救うために】
次にご紹介したいのは、戦後の復興期の技術を今に伝える産業遺産です。関係者が「知恵と工夫」を重ねることでさまざまなハードルを乗り越え、保存と公開にこぎつけた事例です。
先月、茨城県筑西市で国立科学博物館などが記者会見を行い、民間のテーマパークの中に航空機を展示する博物館を作って年内に公開を始めると発表しました。科博が所蔵する「YS11」の量産1号機を何とか保存したいという関係者の思いが、出発点になりました。

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YS11は、終戦後、航空に関する一切の活動を禁止された逆境を乗り越えようと、昭和30年代に国を挙げて開発が進められました。試作機を含めて182機が生産され、41年にわたって日本の定期路線で運航されました。
その量産1号機は飛行検査機として運用され、平成10年に引退したあとは国立科学博物館が引き取って羽田空港にある格納庫に保管してきました。
ところがここでは一般公開することが難しいうえ、羽田空港の国際化が進む中、滑走路の拡張などによって新しい保管場所探しを迫られました。何とか保存したいと関係者が奔走し、最終的に茨城県筑西市のテーマパークに落ち着いたのです。
しかし、移動には大きな困難がありました。陸路で運ぶにしても、翼のついた状態で道路を通すことはできません。
まず、羽田空港の格納庫で、プロペラやエンジン、主翼や尾翼を取り外す作業が行われました。この作業に4か月かかりました。
そして去年3月。胴体と左右の主翼を別々の大型トレーラーに載せて、深夜の国道を一路、茨城県筑西市に向かいました。到着後は新たに用意された格納庫で、1年かけて機体を元の姿に戻す作業が行われました。

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この引っ越し先がそのまま博物館として活用され、これまで十分に公開することができなかったほかの機体の展示も可能になりました。旧日本軍の戦闘機、ゼロ戦や、昭和34年に南極に取り残されていた犬の「タロ」と「ジロ」を救出したヘリコプターなどが運び込まれ、開館後には5機が常設展示される予定です。
博物館の運営自体も、これまでにない仕組みが取られます。運営に当たるのは、国立科学博物館と、テーマパークを運営する企業が設立した一般財団法人。展示する機体は、国立科学博物館が貸し出す形をとるということです。

【「知恵と工夫」で最善の方策を】
YS11を残すための保管場所探しが、国立博物館と民間企業が協力することで、ほかの飛行機も展示・公開する博物館にまで話がふくらみ、開館後は地域の活性化にもつながることになります。
高輪築堤の場合は事情が大きく異なりますが、関係者が「知恵と工夫」を出しあって最善の方策を探るという点に変わりはないはずです。
JR東日本だけでなく、国や自治体、専門家が協力して、「ここにしかない歴史」を生かした街づくりを実現してほしいと思います。

(高橋 俊雄 解説委員)

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