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「1964パラリンピック映像~映していた時代とは」(くらし☆解説)

竹内 哲哉  解説委員

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いまから56年前に開かれた東京パラリンピックの映像です。カラーで、ここまで鮮明に記録された映像が発掘されたのは初めて。開会式のほか当時の競技の様子が映されています。

東京パラリンピックまで半年。1964年のパラリンピックが記録された映像から、当時の障害者が置かれていた状況を伝えます。

【発掘された貴重なカラー映像】
Q.こんなにきれいな映像が残されていたんですね。

A.ここまできれいな映像は見たことがなかったので、初めて見た時にはびっくりしました。1964年の東京大会には21か国378人の選手が参加していましたが、カラーで見ると、ユニフォームにそれぞれの国の特色が出ているのがよくわかりますよね。また、乗っている車いすも、いまではあまり使われていない前輪が大きいタイプもあったのも分かりますね。

Q.カラーの映像、貴重なんですか?

A.オリンピックは市川崑監督のカラーの公式記録映画をはじめたくさんのカラー映像がありますが、パラリンピックは残されている映像が少なく、公式記録映画もないんです。ただ報告書によると6本の自主制作記録映画があるとされていて、見つかっているのは3本なんです。

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ドキュメント映画「愛と栄光の祭典」。映画会社・大映の有志が集まって制作し、現在はKADOKAWAが保有しています。音楽を團伊玖磨さん、ナレーションを宇野重吉さんが担当しています。
「1964東京パラリンピック」。こちらはNHK厚生文化事業団が制作しました。この2本はいずれも白黒です。
そして、今回発掘された「東京パラリンピック」。当時の厚生省とパラリンピックに19人の選手を送り出した国立箱根療養所が制作したものです。報告書に記載されているものとしては、唯一確認されたカラー映画です。

Q.残りの3本は見つかっていないんですか。

A.残念ながら見つかっていません。パラリンピックの価値は認めていたものの、映像の価値、保管して未来に繋げるという意識は低かったのかもしれません。

【“映像の価値”を伝えた保管の大切さ】
Q.今回、ネガフィルムが見つかったということですが、どこで?

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A.制作した厚生省と箱根療養所、いまの厚労省と箱根病院ですが、そのどちらにも保管されておらず、個人のお宅にありました。保管していたのは長年、箱根療養所に勤めていた細谷公夫さん。そして、NHKに映像を提供してくださったのは、その息子の細谷晃宏さんです。親子2代の連係プレーで発掘されたんです。

Q.なるほど。でも、なぜ、個人のお宅にあったんでしょうか?

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A.保管されていた公夫さんが病床にいらっしゃるため、詳しい経緯は分からないところもあるのですが、晃弘さんによると、公夫さんは手術などの様子を記録する医学写真技師だったため、フィルムの扱いに慣れていました。そこで個人的にフィルムを託されたと言います。その後、違う病院に移りますが、その病院でも写真室で大切に保管を続け、さらにそこで働くことになった晃宏さんが、フィルムを引き継いで保管してきたというわけです。

Q.フィルムの保管は難しいのではないですか。

A.ネガフィルムは温度や湿度によって、色があせたり、かびが生えたりして劣化します。長い間、劣化しなかったのは、公夫さんが温度や湿度が管理された病院の写真室に保管していたことが大きいと思います。また、紛失されなかったのは、公夫さんが晃宏さんに「貴重なものだから大切にするよう」伝えてきたということです。この条件がそろわなければ映像は失われていた可能性は高く、晃宏さんは「父のファインプレー」と言っていました。

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【映像から読み取れること】
Q.これで、報告書にあった3本の映画が確認できたということになるわけですが、映像から読み取れることはありますか?

A.いまのパラリンピックでは行われていない競技の映像がありました。

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こちらはダーチャリーと呼ばれる競技でダーツとアーチェリーの要素を組み合わせたものです。

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こちらはやり正確投げと言われるもので、やりを離れた的に投げる競技です。

あと、これが残念ながらカラーで撮影されたものはないのですが…。

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Q.車いすの障害物競走のように見えますが…。

A.「スラローム」という種目です。白黒なので分かりませんが、赤と白の旗の間を前進したりバックしたり、段差を超えたり、坂を上ったり…と。日常生活に必要なスキルの熟練度を競う競技です。

Q.スポーツと日常生活がつながっていたんですね。

A.昔は道路も舗装されていませんでしたから、砂利道を走る、あるいは段差を超えるというのは、いまよりも求められていたと思います。凸凹道を走るのには筋力もいりますし、バランス感覚も必要です。そして、もうひとつ分かるのが、少し専門的かもしれませんが、日本の選手は体に合っていない車いすを使っていたということです。車いすと体の間にかなり隙間があって、ひじ掛けが漕ぐのを邪魔していますよね…。

Q.漕ぎにくそうですね。

A.腕が体から離れると操作は難しいんです。当時の資料を読むと、イギリスやアメリカなど福祉先進国では、車いすは体に合ったものが提供されていますが、日本の車いすの規格は統一だった、ことが分かります。体に合っていなくても、“座れれば良い”という…。結果、操作がうまくいかず、こんなことも…。

車いすは自分で漕ぐものではなく、押してもらうものだった、つまり日本では障害のある人が自立し社会に出るという概念が乏しかったことが、車いす一つとっても分かります。

Q.ほかにも映像から分かることはありますか?

A.ボランティアなど陰で大会を支えた多くの人たちがいたということです。たとえば自衛隊。車いすを押す姿がよく映っています。また競泳選手をプールから抱え上げるスタッフ。それからやり投げなどの投擲競技などで車いすを支えるボーイスカウトの人たちなど。いまと変わらない支援ですね。

Q.選手たちと交流が生まれていたということですね。

A.ただ、選手の扱いがいまとはちょっと違いました。ナレーションで選手宣誓をした青野繁雄さんが紹介されているんですが、どの映画も青野さん以外、メダリストでも、名前が紹介されていないんです。当時は「障害を見せものにするな」とパラリンピックに反対する声もありました。障害を理由に婚約破棄や離婚など、複雑な事情を抱えた選手もいました。いまは障害があっても名前を伝えるのは当たり前ですが、そういったことにも配慮をしたのではないかということがうかがえます。

【映像に託されたメッセージとは?】
Q.様々なことを映像が語ってくれているんですね。

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A.過去の映像の最後にはそれぞれ表現は違いましたが、「障害のある人が生き生きと暮らせる社会を作ろう」という共通のメッセージがありました。この50年で障害者に対する意識は大きく変わったところもあります。一方で、時代の流れの中で風化してしまった当時の思いもあります。そうした教訓を2020の大会で生かすためにも、これらの映画を見る機会があれば、見て感じて欲しいと思います。また、もし、ご自宅に1964年のパラリンピックの映像があるという方は、NHKまでご連絡いただければと思います。

(竹内 哲哉 解説委員)


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