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「黒人初の大リーガー ジャッキー・ロビンソンが夢見たものは」(くらし☆解説)

小澤 正修  解説委員

4月15日、初めての黒人大リーガー、ジャッキー・ロビンソンの業績をたたえる式典が行われました。人種差別と真正面から闘った先駆者は、スポーツ界のみならず、アメリカ社会のあり方にも影響を与えたと言われています。ことし生誕100年を迎えたロビンソンが夢見たものは何だったのか。
小澤解説委員の解説です。
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【ジャッキー・ロビンソン・デー】
4月15日は1947年に近代大リーグで初めての黒人選手、ジャッキー・ロビンソンがデビューした日です。大リーグでは30球団すべてでロビンソンの背番号42が永久欠番になっています。毎年この日は「ジャッキー・ロビンソン・デー」として、すべての選手が、背番号42をつけて、先駆者の功績をたたえているのです。ことし、マリナーズに移籍した菊池投手も、いつもの18ではなく、42の背番号でマウンドに上がりました。大リーグが行う、こうした歴史の「見える化」は、これまで大リーグでどんなことがあったのか、強く印象に残すものだと思います。
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【ジャッキー・ロビンソンとはどんな選手だったのか】
第2次世界大戦後の1947年にブルックリンに本拠を置いていたドジャースに入団。初の黒人選手となったロビンソンは、差別と偏見と闘いながら、そのスピードと闘志あふれるプレーで、10年間で首位打者や盗塁王、それにMVPも獲得。チームの6回のリーグ優勝にも大きく貢献して、白人以外の選手に道を切り開きました。ロビンソンがいたからこそ、その後、アジア系の選手もプレーできるようになったと言えます。大リーグの新人王には、新たな歴史を作った先駆者にちなんで「ジャッキー・ロビンソン賞」という名前もついています。日本選手も野茂投手、佐々木投手、イチロー選手、そして去年の「二刀流」、大谷選手と4人が受賞していますが、こうしたことは、ロビンソンの偉大な挑戦の延長にあると言ってよいと思います。
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【黒人選手第1号への拒否反応】
当時、黒人選手は才能があっても大リーグではプレーできませんでした。それが第2次世界大戦後に強くなった、反人種差別の動き、それに、黒人の野球ファンを観客動員につなげようというビジネス上の思惑を背景に、第1号の黒人大リーガーが誕生したのです。黒人選手を大リーグから閉め出していたのは、当時の人種差別的な社会情勢を反映した、いわば慣習なのですが、それだからこそ、ロビンソンへの拒否反応は、すさまじいものだったと言われています。脅迫状や、容赦のないヤジ。ホテルやレストランで利用を拒否されるだけではなく、相手から対戦を拒まれたり、チームメイトからも、ともにプレーすることを拒否する動きが出たり、ロビンソンは次々と困難に直面しました。ロビンソンの自伝には「相手ベンチからは“綿花畑に帰れ”などと憎悪の声が聞こえてきた。耐えがたい侮辱に、“すべてを投げ出せば、大リーガーになれなかったのは、尊厳を守ったからだと言える”とも考えた」と当時の心情を記しています。
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それでも「私の犠牲がアメリカをあるべき姿に変える一助になると信じていた」としてじっと我慢し、人種差別的なヤジを率先して飛ばしていた相手の監督との写真撮影にも応じるなど、「やりかえさない勇気」を信念に活躍を続けました。
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当初は、チーム内でも孤独だったそうですが、ヤジに耐えるロビンソンの姿を見た仲間の選手が、相手チームに抗議したり、球場内でファンに見えるように一緒に肩を組んだりして、徐々にロビンソンを守る行動に出るようになり、ファンを含めた周囲も少しずつ変化していったのです。ある試合で白人の子供が「すごいぞ、ジャッキー」と声援を飛ばし、球場の雰囲気が和らいだことを忘れないと、ロビンソンは述べています。
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【ロビンソンが変えた大リーグ】
ロビンソンのデビュー後、1950年代までに、すべての球団で黒人選手が誕生し、その後は、黒人選手だけでなく中南米のラテン系の選手、そしてアジア系の選手らが続々とプレーするようになりました。大リーグ機構によりますと、おととしの開幕時点で全選手のおよそ42%が非白人となり、白人はおよそ58%と史上最少になりました。またことしは、ドミニカ共和国やベネズエラ、それにオーストラリア、ブラジルなど実に20の国と地域の選手が開幕の出場選手として登録されました。日本選手も、これまでに50人以上が大リーグでプレーしています。ロビンソンのたった1人の挑戦から70年以上が立ち、今や大リーグは国籍や人種を超えて実力のある選手がそろう、野球世界一のリーグとなったと言えると思います。
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【スポーツ界を超えて社会に与えた影響は】
アメリカでは19世紀に奴隷制度が形の上では撤廃されたあとも、バスや学校など、公共の乗り物や施設での人種隔離が行われ、「分離すれども平等」という考え方に基づく人種差別が根強く続いていました。当時の公民権運動の最大の懸案事項のひとつともされていましたが、ロビンソンのデビューから7年後、憲法違反であると認定されました。アメリカで形作られ発展した野球は、人々の関心も高く、ロビンソンが、大勢のファンに注目される中で人種差別を跳ね返しながら実力を証明する姿が、当時の公民権運動を加速させたと言われています。「他人に影響を与えない人生は意義がない」を信条とするロビンソンは、引退後も、キング牧師らを中心に行われていた公民権運動にかかわり続けました。
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【ロビンソンが夢見ていたものは】
ロビンソンは野球殿堂入りを果たし、プレーヤーとしては大成功を収めましたが、意外にも自伝にこう記しています。
「黒人が個人として白人に受け入れられるのはそう難しいことではない。私たちの国が肌色の違う人種間の深い断絶に向かって進んでいる間は成功したとは言えない」。
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能力のある野球選手として名誉は得ましたが、「アメリカをあるべき姿に変える」と努力したロビンソンの大きな夢、人種差別が根絶された社会は、まだ実現していないというのです。ロビンソンが亡くなって40年以上がたった今、アメリカでは人種差別的だとされる分断化が進み、ロビンソンが夢見た社会の実現にはむしろ逆行するような動きになっているのではないかと思います。日本では来年、東京オリンピック・パラリンピックが開かれます。その基本コンセプトのひとつには、「多様性と調和」があげられています。人種、性別、障害の有無など、あらゆる違いを肯定し、互いに認め合い、共生社会をはぐくむ契機となる大会とする、としています。スポーツを楽しむにはその前提となる、社会そのもののあり方が問われるのは当然です。東京大会の開催を控え、ロビンソンの生誕100年が、スポーツと社会はどうあるべきなのか、ひとりひとりが考えるきっかけになれば、と思います。
(小澤 正修 解説委員)


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