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毛丹青「川端ブーム」広がる中国

作家・神戸国際大学教授 毛丹青(まおたんせい) 

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今、中国では川端康成文学の出版ラッシュが続いています。その人気ぶりはまるで一つの社会現象が起きていると言っても過言ではありません。長年、中国と日本の双方で著述や翻訳などを続けている私も少し驚いているほどです。先日、中国から日本を訪れてきた約二十人の観光客を、大阪の茨木市にある川端康成文学館にご案内いたしました。みなさんは日本文学の愛読者で、川端ゆかりの地を巡るツアーに参加している人々でした。文学館の館長先生も「ブームのおかげでたくさんの中国の方々が来るようになった」と言いました。
しかし、なぜ今になって、中国で川端文学がブームになったのでしょうか。これは実に興味深いものがあります。

その理由はいくつかありますが、ひとつは今年、川端康成の死から五〇年を迎えたということで彼の作品の著作権保護期間が切れたためでした。

著作物の保護期間については、日本や中国を含む主要国が加盟する「ベルヌ条約」で作者の死後50年としています。しかし、実際のところ、国によって定めている期間は異なります。欧米では70年が主流です。日本は旧著作権法で50年としてきましたが、環太平洋パートナーシップ協定発効に伴う同法改正により、2018年12月、70年に延長されました。保護期間が切れると、著作物は「パブリック・ドメイン」となり、許諾を受けたり使用料を払わなくても、原則的にだれでも利用できるようになります。

ここでは、50年とする中国の著作権法では「著作者の死後50年目の12月31日に満了する」と定めています。川端康成は1972年4月16日に逝去したため、日本では保護期間内が続いていますが、中国では今年1月からパブリック・ドメインとして扱われるようになりました。

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そして、各社が競うように川端作品を出版し始めたのです。翻訳本としてこれだけ一気に噴き出すのは、稀なことです。その中でもっとも多く刊行されたのは名作『雪国』で、私が知っている限りでは、もう二〇以上の中国語訳バージョンが激しく競い合っています。

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中国の書籍販売サイトで検索すると今年1月に入ってから、川端作品の出版点数は今後の予定を含め80冊を超えています。

実をいいますと、2021年に三島由紀夫が没後50年を迎えた時も、やはり三島ブームが起こりました。しかし今回の川端ブームはその比ではありません。この差はかならずしも二人の作品の優劣といったようなことではなく、現在の中国の社会情勢に大きく関係していると、私は考えています。

中国では2013年の習近平政権誕生以来、言論政策における統制色が強まってきました。出版物に対する管理の厳しさも増す一方で、特に海外からの書籍などは今まで以上に細かく検閲されています。その影響で、民間の出版プロダクションや国営の出版社も含めて、さまざまなジャンルの作品を選定するのに神経を使います。いかにして検閲を通すのか、あるいは内容的にダメだという自己規制で諦めるのか、いろいろと工夫をしなければなりません。

最近、私が翻訳したある日本の学術書も過激な主張はないにもかかわらず、なんだかの理由で出版することができませんでした。しかし川端康成の文学は、「世離れ」をしています。日本の大正から昭和にかけての、戦争がない平和な期間を舞台にしているものが多い。作品の多くが反体制運動や戦争をテーマにしていないので、検閲に通りやすいのです。

さらに、こうした規制による不自由な社会で、人々は川端文学の美しく詩的な情景描写に「癒し」を求めはじめています。元々、中国では川端康成の類まれな表現力について評価が高く、2012年ノーベル文学賞を受賞した作家の莫言さんも『雪国』の美しい描写に大きな影響を受けたと公言していました。そして書き上げたのが後に、映画にもなった小説『白い犬とブランコ』でした。1999年の秋、莫言さんははじめて日本を訪れてきた時に、川端康成が執筆した宿に泊まりたいと言いました。私は彼を伊豆の天城湯ケ島温泉の旅館までご案内いたしました。とても喜んでいました。

現在の中国は、例えば、軍のスローガンをネタにしただけで、コメディアンに二億円の罰金が課されるなど、小説よりも現実社会のほうがもっとも魔術的で、エキサイティングな出来事が次々と起こるような社会です。残念ながら、小説がそのような現実の刺激には勝てないのです。そのため、人々は文学に物語の筋立てというよりむしろ、川端文学のように心を豊かにし、生活に潤いを与えるような美しい言葉を求めています。彼らは文学をまるで「癒しグッズ」のように消費するということで、日々の不満や生きづらさを解消しようとしているのです。

また、優れた若手翻訳者が多くいるという点も、ブームに拍車をかけていると言えます。最近、言論空間がますます厳しく制限され、作家を志す才能がある人でも言論統制による出版禁止や、場合によっては逮捕されるそのリスクまで考えなければなりませんから、ものを書くことを避ける人が多くなりました。彼らの中には、海外文学の翻訳者に転身する人も少なくありません。元々は作品を生み出す能力がある人ですから翻訳のクオリティは高く、大勢のファンがついている翻訳者もいます。さらに、若い彼らはソーシャルメディアを駆使した作品のアピールにも長けていて、翻訳者兼プロモーターの役割を積極的に果たしているのです。

そして今回の川端ブームは、中国の出版社の戦略勝ちという側面も大きいでしょう。日本の出版社と比べて中国の出版社は非常にビジネスに対して貪欲で、著作権保護期間が切れることや、検閲を通りやすい作品が多いことを見越し、準備を進めていたのです。私もある中国の出版社から数年前に川端作品の翻訳を頼まれたことがありました。

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さらに、中国の出版社は装丁のデザインやノベルティといった、本の中身以外にも力を入れています。中国の書店には質感の高いデザイン性を誇る本が並び、コーヒーカップやトートバッグとセットで売られている本もあります。その力の入れようは、私にはやや病的にも思えるほどですが、多くの人々がスマートフォンやタブレット端末で本を読む今現在、逆に紙の本に求められているというのは、それを持っているだけで自分の価値を高めてくれるものと信じ込んでいるからです。川端ブームに乗っている人の中には、作品は大して読まず、流行の川端文学を手に持つことで時代の最先端をいく自分を演出する人もいます。

川端文学が素晴らしいことは言うまでもありませんが、現在の中国では、教養のためというより、心を癒し生活の質を向上させるために川端作品が選ばれているのです。

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