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柳田剛「『におい』のデジタル化」

東京大学 教授 柳田 剛

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東京大学の柳田です。私は、匂いの情報をデジタル化することを可能にする新しいナノスケール材料とデバイスを開発して、新しい化学と情報産業を生み出す研究に取り組んでいます。ナノスケール材料とは、10のマイナス9乗メートルという極めて小さな材料ですが、この小さな材料が匂いの分子を嗅ぎ分ける大きな機能を持っているのです。今日は、我々の身の回りにありふれた”匂い”の情報をデジタル化することがなぜ難しいのか?という科学的な話とその匂いのデジタル化が実現できたらどのような社会になるのかについて話をさせて頂きたいと思います。

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我々人間の五感の中で、聴覚や視覚に代表される音や光などの物理的な情報をデジタル化する技術はこれまでに相当に進んでいて、特にコロナ禍では我々はオンライン会議・オンライン授業等を活用して、音や映像の情報をデジタル化することで以前は不可能であった新しい生活様式を手に入れてきました。これらの過程で、デジタル化で圧倒的に便利になった良い点とやはり対面でないと難しい点についても我々の理解は相当進んだと思います。
これらの物理的な情報のデジタル化が進展した一方で、嗅覚に代表される化学的な情報、すなわち匂い情報のデジタル化はさきほどの物理的な情報のデジタル化と比較すると大きく遅れているのが現状です。この主な原因は、匂いの情報、すなわち匂いを構成する沢山の分子群の情報が物理的な情報と比較して本質的に測ることが難しいためです。なぜ、光や音などの物理情報と比較して、分子の情報である化学情報を測り、デジタル化することが難しいのでしょうか?これは、多くの物理情報が波の情報として取り扱いが可能で、それらを“フーリエ変換”という手法を介して時系列の情報を周波数の情報に変換したり、逆に時系列の情報に変換し戻すことが可能であるために現在の物理的な情報のデジタル化が可能になっています。その一方で、匂い等の分子の化学情報ではそのような物理的な情報では有用なデジタル化の手法が適用できないことが、匂い情報のデジタル化を阻む大きな要因となっています。しかしながら、匂い等の分子の化学情報には極めて有用な情報が含まれていることは明らかですので、匂いの情報をデジタル化する様々な研究と競争が世界中で行われています。
自然界に目を向ければ、我々人間の“鼻”では、空気中に漂う匂いの分子群を“嗅覚受容体”と呼ばれる器官を介して、分子の形の情報をイオン電流という電流の情報に変換し、それらの匂い分子の電流情報を脳に届け、過去に学習した情報と照らし合わせて、匂いを判別することを日常的に行なっているのです。この一連の嗅覚プロセスは極めて洗練された情報伝達プロセスであり、長年の進化の過程で組み上げられたこれらの圧倒的な生体の嗅覚機能を知ることにはある種の感動を覚えます。

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幾つかの研究グループでは、これらの圧倒的に優れた嗅覚受容体そのものをデバイスに組み入れて、匂いの情報をデジタル化することを提案しています。一方、匂いの情報を時間軸の情報として測り続けてデジタル化するためには、生体の機能を模倣はするが、人工的な堅牢な物質で匂いの情報を測り続けることを可能にする材料とデバイスの研究が不可欠です。鳥が空で飛んでいる飛行機能の一部を真似て、飛行機を設計するような工学的な研究です。我々の研究グループでは、固い材料の表面に分子の形状を認識する機能を転写することを可能にするナノ材料を開発して、その新しいナノ材料を用いて匂いを堅牢に測り続ける人工嗅覚デバイスの研究開発を行なっています。これらの研究で、多くの匂いの情報がデジタル化することが可能になりつつあります。

匂いの情報がデジタル化したら、どんな未来社会になるでしょうか?匂いが本来持つ情報を活用した様々な機能や役割が自然界では多くみられます。例えば、フェロモンに代表されるように、匂いの情報がトリガーとなり様々な行動が促進されるケースが自然界には多く見られます。このように、自然界の生態活動では視覚・聴覚に加えて匂いの情報を司る嗅覚の情報を用いてより多くの機能が発現されているのです。即ち、匂いの化学的な情報は、視覚・聴覚等の光や音の情報と相補的な存在であることがよくわかります。冒頭で述べたように、現在のデジタル社会では、実空間の様々な情報をサイバー空間とやり取りすることによって、様々な変革が今まさに起こっています。現在その情報のやり取りが盛んに行われている物理的な情報に加えて、本来相補的であるべき匂いに代表される化学的な情報が両空間でやりとりされるとどのようなことが期待されるでしょうか?まず容易に想像できることは、光や音の情報の質感だけでは達成することが困難な情報のコミュニケーションが可能になると想像されます。脳への刺激を含めて、化学的な刺激が加わることでどのようなレベルのコミュケーションが可能になるのでしょうか?オンラインコミュニケーションと対面のコミュニケーションの差異が小さくなるのでしょうか?また、究極的には無くなってしまうのでしょうか?この実現には、デジタル化した匂いの情報を他方で再現する技術が必要です。技術的な課題は多くありますが、その実現は大変楽しみです。

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また、“職人”と言われる方々が対象とするものから発せられる匂いの情報に基づいて、状況を目的に沿って改善するいわゆる“職人技”と言われるプロセスがデジタル化される可能性があります。例えば、調理中の食品からの匂いの情報は食品プロセスの自動化に貢献できるかもしれません。また、食物の匂い情報を測り続けることが出来れば、食べ物をより美味しくするだけでなく、食品の腐り具合を匂いで検知することによって世界中で問題となっている“フードロス”を未然に防げる新しい手段になり得るかもしれません。また、人から発する匂いにも多くの情報が含まれていると期待されています。我々の研究室でも、人の呼気の匂い計測をすることで、個人の認証を高い精度で行えることを実証しています。顔認証や指紋認証と比較して、全く新しい個人認証技術ですが、匂いを完全に再現することが現状では困難であるために極めてセキュリティーレベルの高い個人認証技術になるのではと期待されています。また、人からの匂いには、個人認証のように人の変わらない情報に加えて、健康状態のように常に変化する情報が含まれています。例えば、人の匂いの情報で疾病診断、術後の状態把握、薬の投与の個人差を測り続けるような新しい医療デバイスになる可能性を秘めています。

匂いのデジタル化を可能にする人工嗅覚デバイスの今後の研究開発に期待していただければと思います。

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