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吉川和博「走る喜びをすべての人に」

ギソクの図書館 運営メンバー 吉川 和博

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 突然ですが皆さん、100mの世界記録、健常者ランナーと義足ランナーの差って、今何秒あるかご存知ですか?健常者ランナーの世界記録と言えば、ジャマイカのウサイン・ボルト選手の9秒58が、14年経った今でも未だ破られていない世界最速記録です。では、義足ランナーのトップ選手は、どれくらいのスピードで走るのでしょうか。
そもそも義足で人が走っている姿を目にすることが少ないと思いますので、イメージしづらいかもしれません。義足にもいろいろな種類がありますが、大きく分けて生活用の義足とスポーツ用の義足があります。

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私自身も義足ユーザーで、このように今は生活用の義足を履いていますが、生活用の義足は、人間の足の形とよく似ています。金属のパイプの先に人の足の形に似せたウレタンの部品がついていますね。膝も欠損している人には、この膝継手という部品も必要になってきます。この形であれば、市販の靴やパンツも普通に履くことができます。

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一方でスポーツ用の義足はどうでしょうか。人間の足とはおよそ似つかわしくない形をしていますね。素材はカーボンファイバーでできていて、軽くて強くて、バネのようにしなることで少しでも早く前に進めるよう、走ることだけに特化してデザインされています。一方で市販の靴も長いパンツも履きにくいですし、ただ歩くだけなら生活用義足の方が早く歩けたりします。

さて、スポーツ用の義足が少しイメージできたと思いますので、話題を義足ランナーの100m世界記録に戻しましょう。健常者ランナーと何秒くらい差があると思いますか?

ウサイン・ボルト選手の9秒58に対して義足ランナーの世界記録はドイツのヨハネス・フロールスさんという両足義足の選手が2019年にドバイで樹立した10秒54!なんとその差はたったの0.96秒しかありません。
この100mの記録は健常者の記録にぐんぐん追いつく勢いで更新され続けています。義足のテクノロジーの進歩と、それを扱うアスリート達の努力や才能が組み合わさることで、義足ランナーの記録が健常者ランナーの記録を追い抜く未来が、もうすぐそこまで来ているかもしれません。

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ところで、義足ランナーの記録が健常者ランナーの記録を追い抜く未来が迫ってくると、ふとこんな疑問を抱く人がでてくるかもしれません。「義足ランナーは特殊な義足を履いているから、不公平なのではないか?」今番組をご覧の皆さんはどう思われますか?実際、一昨年行われた東京オリンピックの走り幅跳びで金メダルを獲得したギリシャのミルティアディス・テントグル選手の記録は8m41。

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同じ年に開催されたパラ陸上ヨーロッパ選手権大会で金メダルを獲得したドイツのマルクス・レーム選手の記録は8m62でした。もしマルクス・レーム選手が東京オリンピックに出場していたら、健常者ジャンパーを飛び越えて金メダルを獲得していたかもしれないですよね。このように、障害を持ったパラアスリートの記録は、健常者アスリートの記録よりも劣っていると多くの人たちが思っている常識が、今まさに崩れるかもしれない。その瞬間がここ数年で十分に起こりうる。そんな時代に私たちは生きています。特殊な義足を履いているのが不公平かどうかという論点は、さまざまな意見があると思いますので、是非皆さんにはそれぞれ考えていただきつつ、これからは健常者アスリートの記録と障害を持ったアスリートの記録を見比べながら、それが逆転する瞬間がいつなのかという視点でスポーツを楽しむのも、とてもエキサイティングな観戦の仕方なのではないかと思います。

さて、少し視点を変えましょう。今私がいるのは東京都の豊洲にあるランニング施設です。その一角に「ギソクの図書館」というスペースがあります。ここにはこのように、走る為の義足が沢山置いてあります。走ってみたいなと思った義足ユーザーがここに来れば、図書館で本を借りるようにいろいろなメーカーの義足を借りて、すぐそこにある陸上トラックで走ることができます。

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「ギソクの図書館」は、一人でも多くの「走りたい」という願いが叶えられるよう、世界一走ることのハードルが低い場所を作りたいという、あるアスリートとエンジニアの思いから2017年多くの方の支援のもと設立されました。義足で走ることはアスリートだけの特別なものではなく、誰でも選択できる普通のことにしたいと思ったのですね。

その背景には、スポーツ用義足は非常に高価で、なかなか手が出しにくいという現実があります。スポーツ用義足は日本では福祉保険が適用されず、義足ユーザーが「走りたい」と思ったら、全額自己負担で購入しなければなりません。バネの部分を一つ購入するのに20数万円、更に膝継手も必要となると追加で30万円以上必要になってしまいます。特に成長期の子供達にとっては、今年履けたものが来年にはサイズアウトしてしまうということもあるので、その度に購入するとなると、ただ「走りたい」という願いを叶える為に費やさなければならない負担はとても大きなものになり、走ること自体を諦めなくてはならない場合もあります。
「全ての義足ユーザーは走るべきだ」というわけではありませんが、「走りたい」と思った瞬間、ちゃんと走ることを選べる、そんな世界を作りたいと思い活動しています。実際、毎月開催されているランニングクリニックには、日本全国から、生まれた時から足に障害を持っている小さな子供から、最近足を失い改めて走ることに挑戦したいと思った方々まで、老若男女、さまざまな人々が訪れます。時には海外から義足ユーザーや義肢装具士を目指す学生が訪れ、走ることを楽しんだり、どうやったら走れるかを議論したりしています。

ある時、ランニングクリニックの参加者にこんな質問をしました。
「走れるようになったら、何がしたいですか?」
すると返ってきた答えは、
「飼っている犬と、散歩しながらランニングがしたいです」
というものでした。私は、こういう方の日常の小さな小さな、でもとても大切な夢が当たり前に叶う、そんな世界になればいいと心から思います。

ところで、どうして人は走りたいと思うのでしょうか?私自身も、義足ユーザーになって改めて走るということを始めて、最近では市民マラソン大会などに参加していますが、ふとした時にこの疑問が湧き、いつも考えています。そこに一つの答えを出してくれたのが、1歳半の私の娘の走る姿でした。彼女にとって走ることは、速いとか遅いとか、勝ちとか負けとか、健康維持とかダイエットとか、そういう概念は全く無しに、ただただいつもと違うスピードで流れていく景色や、肌で感じる風の感覚、少し早くなる呼吸や心臓のドキドキを純粋に楽しんでいるようでした。その姿を見た時、人は潜在的に走ることが楽しいのだなと理解することができました。私たちは大人になるにつれて、そういうピュアな部分を少しずつ忘れてしまうのかもしれませんね。
今日の話が、皆さんが日常のふとした瞬間にちょっと走ってみる、そんな機会につながったら嬉しいです。

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