笹原宏之「これからの名前の読み方」
2023年04月19日 (水)
早稲田大学 教授 笹原 宏之
赤ちゃんが産まれると、その誕生を祝って名付けが行われます。
少子化が進むなか、この子だけの名前を、と考えて、個性的な漢字を選んだり、珍しい読み方を考えたりして、凝った名を付ける人が増えてきたようです。
そのため、読みにくい名前が目立つようになりました。
先ごろ、内閣は、電子政府を推進するために、戸籍にフリガナを付けることを決めました。
いま戸籍には、読み仮名の欄がないのです。
「幸子」と書く人も、(さちこ)か(ゆきこ)か分かりません。
1人で2通りの読み方を持つ人もいます。
その政策の実施に向けて、法務省において、法制審議会のもとに戸籍法部会が設けられました。
私は、日本語と漢字そして姓名について研究しているため、委員として関わりました。
そこでは、すでに使われている氏名はともかく、新たに出生届に書かれた読み仮名に対して、国が規制を設けるか、役所の窓口で審査をするかどうかが、議論の一つの焦点となりました。
名前には、「通常用いられる音訓」でなければならないという案を経て、「文字の読み方として一般に認められているもの」という趣旨の文言を、法律に加えることとなりました。
それを踏まえて、今後、どのようなことに注意する必要があるでしょうか。
日本には、平安時代以前から、名前の漢字に特有な読み方があります。
それは「名乗り訓」などと呼ばれるものです。
たとえば「朝」と書いて(とも)。鎌倉幕府を開いた源頼朝で知られていますね。その少し前から見られました。
また、「和」と書いて(かず)。今でも、和子さん、和雄さんなど、たくさんおいでです。
実は、これらの読み方は、漢字の意味とは合致しておらず、なぜそう読めるのか、はっきりしていないのです。
しかし、そういうものであっても、日本社会でしっかりと定着しています。
こうした新しい読み方は、いつの時代にも生み出され、それらを集めた辞典も編まれ、江戸時代から『名乗字引』などと題して出版されています。
京都のお公家さんには、「公」を「きみ」から「きん」と読ませる慣行が広まるなど、社会ごとに違いも現れました。
私の名の最後の字「之」は、「の」ではなく「ゆき」と読みますが、これは「常用漢字表」にない字で、漢文に由来する読み方です。
「彩(サイ)」を(あや)と読ませる名も、昭和の後半に急に広まったものだと、お気づきでしたか?
「椛(木偏に花)」は日本独自の漢字です。カバやモミジのほか、21世紀に入ってから、(いろは)とも読むようになりました。色づいた葉っぱということで、イロハモミジという品種名をイメージしたものでしょう。
辞典に載っていなくとも、人々の心を捉えれば広まっていくものなのです。
さらに実例を挙げていきましょう。
「愛」と書く名の読み方は、100種類ほど見付かっていますが、その一つに「愛」と書いて「かなさ」があります。
これは、愛を意味する沖縄の方言を読みとした方言訓による名前です。
地域特有の読み方は、過去にも見られます。
同じく「愛」と書いて「めご」。これは、安土桃山時代、伊達政宗の正室の名前「愛姫」にありました。
これは、東北方言の「めごい」「めんこい」によるものでしょう。
それらは、古語の「かなし」や「めぐし」に由来します。
各地で育まれてきたこうした方言を、漢字を用いて表記する方法は、方言漢字というものの一つとして捉えることができるのです。
「海」と書いてマリンさんは、すでに国内に若年層を中心に千人ほどいるようです。
漢字を外来語で読ませるそういった名を、いわゆる「キラキラネーム」などと見なす人もいます。
しかし、外来語による漢字の読み方は、「頁(ページ)」や「釦(ボタン)」など、先例がいくらでもあります。
早くは明治時代に、森鷗外もまた子孫に、外国でも通じるような名を漢字で付けていました。
「茉」の音読みはマツですが、「茉莉(マツリ)」でマリと強引に読ませたのです。
日本において漢字は、「訓読み」という、漢字を日本語にカスタマイズする方法を獲得してから、自由度の高い読み方を実現してきました。
「瞳」をアイと読ませる名について、大学生に聞いてみたところ、いわゆるキラキラネームだと思う人と思わない人とが、半分ずつとなりました。
むかしからある「菫(すみれ)」という名を持つ人は、「キラキラネームだと言われた」と、いぶかしがっていました。
「慣れていない名はキラキラネームだ」と即断されてしまう、そんな風潮も感じられます。700年ほど前に兼好法師も『徒然草』で、近頃の見慣れない名を批判していたのです。
「音」という字は音読みは「オン」ですが、名前では「ノン」が増えて、それを指摘する人が減りました。
「絢」は音読みが「ケン」ですが、旁にある「旬(ジュン)」という部分から、「ジュン」と読ませる名もよく見られます。
このように中国からの外来語ともいえる音読みにも、日本の名前に特有な読み方がすでにたくさん現れ、生活の中に溶け込んでいるのです。
日本語では、漢字を2字以上まとめ、別の読みを与える「熟字訓」という表現方法まで生み出されました。
「煙草」と書いてタバコ、「秋桜」と書いてコスモスでしたね。
「大和(やまと)」の「大」は、ここでは読まない字なのですが、すっかりなじんでいます。初めは違和感があっても、慣れると普通に感じられる、そういう傾向が指摘できます。
奈良時代よりも前から、こうした工夫が常に行われてきたのです。
それどころか、「小鳥遊」と書いて「たかなし」と読ませる名字は、今、「面白い!」と言って、小説や漫画などの創作の場、いわゆるクールジャパンなどで、もてはやされています。
それぞれの時代において、新しい読み方が生み出され、人々の心を捉えたものが残ってきたのです。
そうでないもの、例えば「高(たかい)」と書いて「ひくし」というような読ませ方は、仮に制限されなかったとしても、自然と淘汰されてきたわけです。
こうした現状を踏まえると、国が今の時点で、名付けを完成や飽和している状態と捉えて、新作の可能性をすべて遮断したならば、命名文化は活力を失うと予測されます。
来年の法制化に伴って、課題も懸念されます。
仮に「一般に認められている読み方」しか受け付けないとなれば、どこまでが容認され、どこからがいけないのか、自治体の窓口の方々のためにも、基準が必要となります。
この先、法務省では、そうした基準も検討されることになります。
それは、現在までの人々の、知性と感性が凝縮された命名文化の、根っこを枯らすようなものにならないことが期待されます。
名前は個人を表す記号ですが、親から子への無形の贈り物でもあるので、個性があってもかまいません。
それと同時に名前は、長年の歴史を背負ってきたという、伝統をもつ固有名詞です。
そして、人の名前は、社会で広く共有されていきます。
そのため、あまりにも読めない放埒(ほうらつ)な名前では、当人も、周りの人も、困ってしまうことでしょう。
日本語は多様性に満ちており、数多くある漢字はそれに活力を与えています。
名付けは、そうしたことが複合した、しかし、しっかりとした幹を持つ文化的な営みであるのです。
子どもに名前を付ける際には、漢字だけでなくひらがな、カタカナを選ぶことだって、できます。
名付けに際しては、子どもへの思いだけでなく、ことばと文字と名前について、過去を振り返り、そして皆の将来の幸せについて想像しながら、しっかりと考えて、その子にふさわしい読み方を決めてあげましょう。