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中垣恒太郎「グラフィック・メディスンとは」

専修大学 教授 中垣 恒太郎

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私はアメリカ文学・比較文学を軸にマンガ研究に携わっています。
アメリカのマンガ文化といえば、スーパーヒーローものに代表される「アメリカン・コミックス」のジャンルが有名ですが、二十一世紀はじめ頃にマンガによる回想録が新しい潮流を示していました。歴史と個人の人生を重ね合わせる回想録や、ジェンダーおよびセクシュアリティのあり方を探る回想録に注目する中で、「グラフィック・メディスン」と呼ばれる研究動向に出会いました。

「グラフィック・メディスン」は「医療人文学」の新しい形を目指して二〇〇七年に英米で提唱された概念であり、医療分野にマンガを導入する試みを探る研究領域です。それ以降、日本で多様な発展を遂げている「医療マンガ」との比較考察を研究の軸に据えることになりました。「グラフィック・メディスン」に位置づけられる海外のマンガの多くもまた、マンガによる回想録の流れから生まれています。日本のマンガでは「自伝マンガ」や「闘病エッセイマンガ」に相当するもので、治療中の心身の変化を患者および家族の視点から描く作品や、あるいは、看護師や医師の視点から医療従事者が抱えるさまざまな想いをマンガによる回想の形で表現した作品などがあります。
私は文学研究の方法論から出発していることからも作家作品研究、ジャンル文化研究を軸にしています。さらに人文学の応用として、マンガを文化資源として捉え、その有効な活用法を探ることにも関心を広げています。

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グラフィック・メディスンは、専門性が高まり複雑化されている現在の医療の状況に対して、さまざまな立場から医療に関心を寄せる者たちが集い、医療従事者、人文学研究者、アーティスト、患者とその家族をつなぐ交流活動の場を作り上げることを目的としています。二〇一〇年以降、国際グラフィック・メディスン学会が年次大会として開催されており、世界的な規模での研究交流も活発になされています。
国際的なグラフィック・メディスンの文脈においては、「コミックス」、「グラフィック・ノヴェル」、「カートゥーン」、フランス語圏では「バンド・デシネ」など、その呼び方を使い分けているのですが、ここでは便宜上、「マンガ」と呼ぶことにします。

医療者教育にマンガを教材として導入することにより、医療をめぐるさまざまな具体的な状況に対する想像力を養うことも期待されています。医療現場において患者に対してわかりやすく病状を説明する際にもマンガは実用的な医療コミュニケーションの手段として重要な役割をはたしています。
英語圏でのグラフィック・メディスンは医療者教育にマンガを活用する試みを活動の柱にしています。研究書『グラフィック・メディスン マンガで医療が変わる』が二〇一五年にアメリカのペンシルバニア大学出版局から刊行されているのですが、新しい研究領域としてのグラフィック・メディスンをスタートさせた6名による共著です。分野の内訳は、文学研究者3名の他、内科医でありマンガアーティスト、内科医であり倫理学研究者、そして、看護教育者でありマンガアーティストです。
この他にも、心理学の領域で、「語り」の効用に注目した「ビジュアル・ナラティブ」研究との連携も注目されています。グラフィック・メディスンは分野を横断した人文学研究者、医療従事者、アーティスト、患者およびその家族などをつなぐ学際的なネットワークを目指す取り組みです。

日本のマンガ文化に目を向けますと、「医療マンガ」は現在もなお新たな作品が生み出されており活発な進展を示しています。「医療マンガ」と一口に言っても、「ストーリーマンガ」、「四コママンガ」、パンフレットなどに用いられる「解説マンガ」など、そのあり方もさまざまです。とりわけ近年活況を呈しているのが「エッセイマンガ」および「自伝マンガ」の領域であり、主として闘病体験に基づく作品が多く発表されています。患者本人の人生だけではなく、大きな病は家族の生活のあり方をも変化させてしまうものです。
家族の視点をも含めた自伝的側面を持つ「闘病エッセイマンガ」は、マンガという視覚文化を通して「病」をどのように表現することができるか。また、「病」とともに生きることによって日常の生活や世界の見え方がどのように変容していくものであるのかを、それぞれのマンガ表現者ならではの視点により、「病」の捉え方、気づき、気持ちの伝え方を探ることができる点に特色があります。「闘病エッセイマンガ」は同じ病や症状を抱える読者に共感をもたらすだけでなく、あらゆる読者に健康や人生について多くのことを考えさせてくれるものです。同じ症例の診断がなされていても個々人の身体や精神の状況によって病状や快復のあり方が異なるように、書き手の数だけ医療をめぐるエッセイマンガの可能性も開かれています。さらに、綿密な取材に基づき、フィクションとノンフィクションを組みあわせた表現もあります。

いわゆる「医療マンガ」として大まかなイメージは一般にも共有されていますが、「医療マンガ」の対象をどのように規定するか、ジャンル文化研究としての「医療マンガ」の区分については現在も模索の段階にあります。
英語圏のグラフィック・メディスンの動向を参照するならば、「医療マンガ」の概念を、より広く、「生命と健康、病気にまつわる領域」として捉えることも有効でしょう。グラフィック・メディスンの概念自体が医療の専門化・細分化が進む中でこぼれ落ちてしまいかねない層に目を向ける狙いによって生まれたことからも、老いや介護、障がいなど、医療の周辺領域にまで射程を広げることが期待されています。

「医療人文学」の概念を、「健康人文学」などとして、より広い概念に拡張しようとする流れが同時にもたらされています。日本でも社会学の分野から「生存学」の概念が提唱されており、障がいや老いを含め、医療の範疇では収まりきらない側面までをも包括的かつ学際的に捉える取り組みが探求されています。
グラフィック・メディスンでもう一つ重要な点は、ことばでうまく捉えることができない複雑な領域をヴィジュアル表現によって探ろうとする姿勢にあります。マンガというと、「わかりやすい」側面ばかりが強調されがちなのですが、海外でグラフィック・メディスンとして扱われているマンガ作品は決して「わかりやすい」表現がなされているわけではなく、むしろことばでは表現しにくい複雑な心境をマンガというヴィジュアル表現であらわしています。海外のマンガ表現と日本の作品を比較することにより、それぞれの傾向の特色も浮かび上がってきます。そして、病や健康に対する姿勢のあり方を別の角度から捉えるヒントをそこから得ることもできるでしょう。

グラフィック・メディスンはこのように包括的な視野を持ちながらも、同時に固有の人生のあり方に対する注目を軸としています。多様性というくくりの中で、ともすれば個の人生が埋没しかねない現代において、あくまで個の物語に軸足を置きながら領域を乗り越えようとする姿勢にグラフィック・メディスンの特色と可能性があるのです。障がいや老いなどの周辺領域をも含む病や健康にまつわる日常の生活のあり方を捉えるマンガを通して、私たちの医療と健康のあり方を見つめ直し、皆にとって暮らしやすい世界を探っていく場を作り上げることを、グラフィック・メディスン研究は目指しています。

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