除本理史「原発賠償指針の見直しと残された課題」
2023年03月08日 (水)
大阪公立大学 教授 除本 理史
昨年12月20日、福島原発事故の賠償指針が9年ぶりに見直されました。賠償指針とは、事故を起こした東京電力に対して、最低限どのような損害を賠償すべきかを示したガイドラインで、国の原子力損害賠償紛争審査会によって定められます。
賠償指針は、最低限の賠償範囲を示すガイドラインですから、そこに書かれていない損害がただちに賠償の対象外になるわけではありません。しかし、東京電力がそれを賠償の上限のように扱ってきたために、指針によって賠償の範囲がほぼ決まってしまうという状況が続いてきました。
賠償指針の見直しは、今回が初めてではありません。2011年8月に「中間指針」と呼ばれる基本的な指針がまとめられました。しかし、事故から半年もたたないうちにつくられた指針ですから、暫定的な中身だったというべきでしょう。
それだけでなく、「中間指針」から漏れていた被害も多かったので、被害者や世論による批判が高まりました。指針をつくる過程では、当事者である被害者に対し、議論に参加する機会が制度上保障されていません。当事者の声が反映されないため、賠償の内容や金額が、被害実態に見合っていないという問題が出てきたのです。時間の経過や批判の高まりに対応するために、賠償指針の見直しが求められ、今回が5回目となります。
今回、9年ぶりに見直しがおこなわれた直接のきっかけは、昨年3月の最高裁の決定です。最高裁は、福島原発事故の賠償に関する7つの訴訟で、東京電力の上告を退けました。これによって、高裁が出した7つの判決の損害論と、東京電力の賠償責任が確定したのです。
ここで、裁判の経緯を振り返ってみましょう。原発事故の被害者による集団訴訟が初めて起こされたのは、2012年12月でした。
それ以降、提訴は全国各地に広がって、およそ30件にのぼり、原告数は1万2000人を超えました。
原告の構成や請求内容はさまざまですが、これらの訴訟を全体としてみれば、原発事故の深刻な被害を明らかにし、その実情を十分に反映した賠償や、環境の原状回復を求める取り組みだということができます。
初の地裁判決は2017年3月に出され、その後、多くの判決が積み上げられてきました。かなり温度差はありますが、これまでの判決に共通するのは、従来の賠償指針の水準を超えて、独自に損害を認定していることです。
たとえば、避難指示が出された地域には、「ふるさとの喪失」に対する慰謝料が認められるようになりました。住民は原発事故によって避難を余儀なくされ、地域での平穏な日常生活をとつぜん奪われました。家や土地、豊かな自然の恵み、住民同士のつながりなど、日々の暮らしを支えてきた一切の基盤を失ったのです。
従来の賠償指針では、こうした重大な被害に対する慰謝料の評価が不十分でした。そのことを明らかにしたのが、被害者の集団訴訟です。昨年3月の最高裁決定で、東京電力の賠償責任が確定しただけでなく、賠償指針が不十分であることもはっきりしたのです。
国の原子力損害賠償紛争審査会は、最高裁の決定を受けて、昨年4月から、賠償指針の見直しをどうするかについて検討をはじめました。専門委員を任命して、判決などの調査と分析をおこなうことにしたのです。専門委員は、昨年9月に中間報告、11月に最終報告を発表し、見直しの方向性を明らかにしました。
この議論の過程で、昨年6月、私も参加する日本環境会議の「福島原発事故賠償問題研究会」は、どのように見直しを進めるべきかに関する提言を発表しました。
指針見直しの進め方に関しては、まず、被害実態をていねいに把握し、それを議論の出発点にすべきだと提言しました。必要な調査などをおこなうとともに、裁判や研究を通じてこれまで積み上がってきた知見を取り入れることも提言しました。それ以外に、被害者の声を聞く機会を保障すべきだということや、確定判決以外の裁判や和解の到達点も視野に入れることを掲げました。
次に、見直しの具体的内容に関しては、4つの点を挙げています。最初の2つについていえば、まず、これまで賠償指針の検討が不十分だった領域について、きちんと議論すべきだということです。とくに、政府が避難指示を出さなかった地域の住民に対する賠償が不十分であり、そのことを再検討すべきだと提言しました。
2点目は、政府の指示による避難者についても、賠償指針を見直すべきだということです。最高裁が損害論を確定させた7つの高裁判決では、「ふるさとの喪失」などについて、慰謝料の増額が認められているのですから、この点を踏まえて指針を見直すべきことを掲げました。
しかし実際の審議は、私たちが提言したようには進みませんでした。ていねいな被害実態把握という点では、昨年8月に福島での現地視察が1回おこなわれたものの、外部専門家のヒアリングなどは実施されませんでした。専門委員の最終報告から1か月あまりで、矢継ぎ早に4回の会合が開催され、今回の見直しが決定されたのです。
今回増額されたのは主に慰謝料で、1人あたりの標準的な追加賠償額は、帰還困難区域に対して130万円、居住制限区域と避難指示解除準備区域に対して280万円などとなっています。
もちろん、避難の過酷さや「ふるさとの喪失」など、被害者が裁判で主張してきた事柄が慰謝料に反映されたことは積極的に評価できます。
しかし、避難指示区域外に対しては、ごくわずかの増額にとどまりました。自主的避難等対象区域に関しては、賠償対象期間を2011年末までに限定したうえ、子ども・妊婦以外に対して1人あたり実質的に8万円を増額したにすぎません。
賠償が増額されたのは避難指示区域が中心であり、区域外では少額にとどまったことから、かえって賠償の区域間格差が拡大しました。原発事故の被害者は、区域による賠償の線引きを批判してきたわけですから、今回の見直しは被害者のそうした思いに逆行する結果をもたらしています。今回の指針見直しはあくまで中間的なものですし、集団訴訟は今後も継続します。原賠審は引き続き、被害実態に即した指針の見直しを続けるべきです。
昨年6月、最高裁は国の責任についても判断を下しました。先ほど述べた7つの訴訟のうち、国が被告となっているのは4つです。高裁レベルでは、4つの判決のうち3件で国の責任が認められていました。
しかし最高裁は、これら4件について、国の責任を認めないとする判決を出したのです。ただし、4人の裁判官のうちの1人は、国の責任を認めるべきだという反対意見を出しており、この点に注目があつまっています。国の責任についても、あとに続く訴訟で引き続き争われます。
福島原発事故から12年を迎える現在も、被害回復と地域の復興は途上です。法的な争いが続く一方、福島の教訓を検証し、将来に向けて継承するという課題も浮上してきています。こうした両側面を的確に捉えつつ、被害回復と地域の復興に向けた取り組みを着実に進めていくべきでしょう。