山梨裕美「動物園から考える『動物福祉』」
2022年11月02日 (水)
京都市動物園 主席研究員 山梨 裕美
人の社会は動物に様々な形で頼っています。
動物園であれば、動物を見ることで楽しみを得たり、動物について新しいことを学んだりするなど人にとっては良いことがあります。
しかしそのために狭い場所で暮らす動物などを見ると、そのあり方に疑問を感じるかもしれません。人は他への共感性を持つ生き物だからこそ、そのジレンマに悩まされることがあります。
しかし、わたしたちヒトの価値観からの『よいもの』を、異なる生き物に押し付けることは、動物にとって必ずしもプラスには働きません。
ではどうすればいいのでしょうか。
今日は、動物の立場に寄り添って人と動物のかかわりを見直し、より良い形で共存することを考えるための「動物福祉」の考え方と、それをもとにした動物園での実践・研究についてお話したいと思います。
動物福祉とは、簡単に言うと、動物の心と体の状態を指します。
動物と関わる際には、動物福祉にも配慮することが、国際的な流れとなっています。
行動や生理指標など科学的な手法をもとに動物福祉を評価することと、それをもとに実践を行うこと、この2つがその主なアプローチになります。
ここで大切なのは、なんとなく良さそう・悪そうと言った自分の主観を離れて、客観的な根拠をもとに議論し、行動に移していくという姿勢です。
動物福祉を客観的に評価し、実践するために、国際的にその概念や評価法が議論されています。動物園・水族館の動物福祉を考える際には、栄養・物理環境・身体の健康・行動・精神といった5つの領域において動物がどのような状況・状態にいるのかということを、
現代の科学的・実践的な面で可能な手法を工夫して評価していきます。
現在、世界の動物園で、動物福祉の観点から環境作りや制度作りが行われています。
動物福祉に配慮し、動物らしい性質を尊重することは、現代の動物園の持つ、レクリエーション・環境教育・保全・調査研究の役割を果たすための土台にもなります。
わたし自身は、大学生の頃、栄養的・衛生的には満たされても、単調な環境で暮らすことが動物の行動を変えてしまうことや、幼いころの環境が動物の生涯に渡った影響を与えることなどに驚いたことが、こうした分野に興味を持つきっかけとなりました。
動物は野生でもそれぞれの環境に適応するために行動が変わります。
しかし、生活環境に合わせられないがゆえのサイン、たとえばストレスや苦痛などにつながる場合には問題となります。
動物園・水族館では昆虫など小さな無脊椎動物からゾウなどの大型ほ乳類までが暮らしており、環境が動物にどのように影響するのかは種によっても個体によっても異なります。そのため、動物福祉の評価と実践を組合わせ、動物のことを理解しながら、少しずつ環境や飼育手法を改善していくアプローチがますます重要になります。
具体的にどんなことをしているかというと、たとえば野生では樹の上で生活する動物の飼育環境に木を植えたりロープを渡したりするなど物理的な環境を整えることや、群れで生活する動物であれば仲間と暮らすことができるようにすること、種特有の採食パターンを促すこと、動物の五感を適度に刺激すること、また、種特有の認知能力が発揮できるようにするなど色々なものがあります。
このように、動物に関する科学的な知見をもとに動物福祉の向上のために環境を改善するための実践を環境エンリッチメントと言います。動物は、それぞれが行動的・生理的な欲求を持っています。それを満たすために、動物に合った選択肢を増やしていきます。
いくつか実践と評価の具体例についてお話していきたいと思います。
飼育動物が同じ行動を繰り返す常同行動と呼ばれるものがあります。
たとえばトラであれば、同じ場所を行ったり来たりする行動が観察されることがあります。
常同行動は、動物の欲求が満たされないような環境でよく観察されるため、ひとつの評価指標として使われます。京都市動物園のトラにもこうした行動が見られています。この行動は、環境エンリッチメントを行うことで変わるのでしょうか?
トラが食べる肉を運動場の中に隠したり、他の動物のにおいがついたものを入れたりするなど、探索行動を促す工夫を行い、その種類が多い日と少ない日で行動を比較してみました。
すると、そうした工夫が多い日には、探索などの行動が増加し、常同行動が減少することがわかりました。
血液・唾液・毛や排泄物などに含まれるホルモン濃度などを生理学的なストレスの指標として用いることもあります。
たとえば、日本モンキーセンターのスローロリスという小型の霊長類のオス2個体が同居する前と後とで、ストレスに関連して増減するホルモンを排泄物から測定しました。
これは、スローロリスの環境改善のために行った取組ですが、野生では同じ性別のおとな同士が出会うことはほとんど観察されていないため、一緒に暮らすことがどう影響するのかはわかりませんでした。
結果として、同居直後はケンカも見られ同居する前に比べて、ストレスに関連したホルモン濃度が増加しましたが、10日ほどたつと毛づくろいなど親和的な行動が頻繁に観察されるようになり、その時期にはホルモン濃度は減少することがわかりました。
このように複数の視点で評価することで、仲間との暮らしが社会行動の発現につながることに加えて、ストレスの減少にもつながっていることを確認できました。
他にも現状の課題を把握するために、動物福祉に関するチェックシートを利用して、環境の改善につなげることもあります。
たとえば、2020年に京都市動物園のアジアゾウを対象に、物理環境や社会環境、食べ物、衛生環境、人との関係、動物の健康や行動などについてチェックシートを用いて評価を行いました。昼間と夜間それぞれで各項目の点数をつけたところ、夜間の環境の点数が低く、課題が多いことがわかりました。
そのため、夜間にも屋外のグラウンドにアクセスできるようにするなど、職員がいなくなった後の夜間の環境を整える取組を行いました。
こうした動物福祉のための取組はこれまでも行われてきましたが、近年では各動物園・水族館、さらに公益社団法人日本動物園水族館協会などが組織的に制度を作っています。
京都市動物園では動物福祉の指針を2020年に策定しました。
この中では、これまで述べてきたような実践に加えて、どの動物を飼育し、繁殖させるかといったコレクションプランの策定など、運営のための指針も含まれます。
動物福祉のためには、限りある環境の中でどの種を飼育するのかということは重要です。
京都市動物園では、ライオンの飼育をやめることにしましたが、それは、ライオンの社会性や行動の欲求をここで満たすことは難しいと判断したためです。
動物園では、このように試行錯誤しながら、動物福祉への配慮を行っています。
外からは見えにくいものや、一見印象とは異なり、理解しづらいものもあると思います。
動物のために、これまでとは違うことをしなければならないこともあるでしょう。
しかし、こうしたわたしたちと違う生き物への配慮の形から、私たちの社会を豊かにするヒントを学ぶこともできるのではないかと思っています。