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町田樹「スポーツにおける感動の意味」

國學院大学 助教 町田 樹

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 私は現在、スポーツ科学を専門とする研究者として大学に勤めているのですが、かつて2014年までは、フィギュアスケートの競技者として活動しておりました。その競技者としてのキャリアでは、ありがたいことに、オリンピックや世界選手権という大きな国際大会に出場する機会に恵まれましたが、一方で、数え切れないほどの挫折や困難も経験しました。

 例えば、怪我などの身体的問題はもとより、極度の緊張状態などのストレスが原因となる心理的問題、あるいは引退後の人生形成に悩むセカンドキャリア問題など、挙げればキリがないほど、様々な問題に直面してきたわけです。私はその度に、試行錯誤して自分なりに問題を克服するための考え方や、ノウハウを導き出してきました。

 実は今年の春に、私と同じような問題で悩む競技者に向けて、解決へと導く思考方法を提供するために、一冊の本を書きました。本書は、「アスリートによるアスリートのための哲学」をテーマとした、新しいスポーツ論となっています。私は、この本の最終章で若きアスリートに向けて、このようなメッセージを綴りました。

 「スポーツで感動は与えられない。」

 私は、なぜこうしたメッセージをあえて、若いアスリートに送ったのか。今日は、この「感動は与えられない」という言葉の真意について、語ってみたいと思います。

 さて、皆さんは、この「感動を与える」という言葉を改めて聞いて、違和感を覚えないでしょうか。アスリートがインタビューなどで「感動を与える」と言うと、あたかも発言者であるアスリート本人が、感動を生み出しているかのように聞こえてきます。この場合、感動はアスリートの手によって創造され、観客の元に届けられることになるわけです。しかし、本当にそうであるならば、アスリート本人が「感動を与えたい」と思う人たち全員に対して、感動をもたらすことができるはずです。
ところが実際には、残念ながらスポーツを観た人全員が感動するわけではありません。

 では、なぜ感動する人としない人がいるのでしょうか。たとえば、プレゼントを贈るか否かは、送り手の側に委ねられています。送り手が贈ろうと思わなければ、プレゼントの受け渡しは、そもそも発生しません。それゆえに、プレゼントを創造する主体は、送り手ということになります。一方で、そのプレゼントをもらって感動するか否かは、受け手の側に委ねられています。もし、そのプレゼントが欲しい物であった場合、受け手は喜んで感動するはずです。しかしながらそのプレゼントが、すでに所有している物であったり、使い方がわからない物であったならば、受け手がそこまで感動することはないでしょう。

 このことからも明らかであるように、プレゼントの例だけでなく、スポーツでも、はたまたアートでも、感動を創造する主体は送り手ではなく、実は受け手なのです。これらは感動をもたらす原因にはなりますが、だからといって、感動という結果を保証するものではありません。スポーツでも、「感動」というのは、アスリートのパフォーマンスと、それを見る人たちの感受性が結びつくことで、はじめて生まれるものなのです。それゆえ、アスリートやスポーツの担い手が、あたかも一人で生み出しているかのように、「感動を与える」などと発言することに違和感が生じるのでしょう。

 近年、アスリートだけならまだしも、実に多くの人たちが「スポーツで感動を与える」という言葉を使うようになってしまいました。私がそれを如実に感じたのが、昨年の東京オリンピック・パラリンピックです。
 招致活動が本格的にスタートした2011年から、昨年のオリ・パラ閉幕まで、東京五輪は、多かれ少なかれ「震災からの復興」や、「コロナ禍の克服」を象徴する役割を担わされていたように思います。と同時に、その約10年のあいだ、五輪に関係する様々な人たちによって、「スポーツの力で夢や希望を与える」であるとか、「スポーツの力で世界をよりよくする」、などといった言葉が、頻繁に語られていました。

 しかし、はたして本当に、スポーツにはそのような力があるのでしょうか。私は何もスポーツに力がないと言いたいわけではありません。ましてやスポーツやアスリートを貶めるつもりも、一切ありません。むしろ私は、誰よりもスポーツの可能性を信じています。巧みなパフォーマンスを発揮するアスリートの姿を見て、夢や希望を抱くことができた人もたくさんいらっしゃることでしょう。
また、南アフリカ共和国のアパルトヘイト政策撤廃をめぐる歴史などに見られるように、スポーツが多少なりとも平和に寄与したことだってあります。さらには、スポーツが地方創生や人々の健康増進に貢献していることは、紛れもない事実です。
しかしながら、こと現代においては明らかに、「スポーツの力」や「感動を与える」という言葉が、残念ながら濫用されている印象があります。

 こうした言葉に象徴されるように、近年、アスリートには競技を行うこと以上の、何かプラスアルファが求められているような気がしてなりません。周囲が「スポーツの力で感動を与える」などと発言すればするほど、アスリートはどうしても「自分のパフォーマンスで感動を与えなければ」と、余計な責任感を感じてしまいます。それだけならまだしも、感動をもたらすことができなかったときなどには、「自分は役に立てなかった」と自責の念に駆られてしまうアスリートもいるかもしれません。このようにアスリートはいまや、社会やマスメディアがつくり出す、「スポーツも社会の役に立たなければならない」、という空気を気にしなければならないようになってきていると思います。だからこそ、アスリート自身も安易に「感動を与える」などと発言しないよう気をつけなければなりませんが、一方で、私を含めて、スポーツを「観る」側、「語る」側の人たちも、アスリートからそのような言葉を引き出そうとすることを自制する必要があるのではないでしょうか。

 「スポーツの力」や「感動を与える」という言葉には、時として社会をも動かす大きな力が宿ります。しかし、そもそもスポーツは、たとえ経済発展や、平和の創造や、感動を与えることに貢献しなかったとしても、この人間社会において、古代から脈々と継承されてきた、かけがえのない「文化」なのです。
 コロナ禍に見舞われた当初、スポーツは不要不急とまで言われました。もし心ない人たちから「この世界にスポーツは必要か」などと問われたとしましょう。この質問自体がナンセンスではありますが、私は自信を持ってこう答えたいと思います。

 スポーツは、この世界にアスリートが存在する限り必要だ、と。

 きっと私だけでなく、スポーツを愛するすべての人が同じように答えてくれるでしょう。だから選手は、たとえ自分のプレーが感動をもたらさなかったとしても、アスリートとして誇りを持つべきです。なぜならば、オリンピックのようにどんなに大きな大会であろうとも、はたまた、町内大会のようにどんなに小さな大会であろうとも、競技会の大小を問わず、アスリートがこれから臨んでいくであろう一試合一試合、一プレー一プレーが、スポーツ文化を耕し、継承することに他ならないのですから。
 
 私も一人のスポーツ研究者として、「スポーツの力」という言葉に頼らずに、この文化をよりよく未来に受け渡していくためにはどうすればよいのか、真摯に考え続けていきたいと思います。

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