細谷雄一「イギリス 新首相誕生」
2022年09月19日 (月)
慶應義塾大学 教授 細谷 雄一
イギリスの与党・保守党の党首選で勝利を収めたトラス氏は、9月6日、スコットランドのバルモラル城に滞在中のエリザベス女王を訪れ、新しい首相に就任しました。通常は新たに就任する首相は、ロンドンのバッキンガム宮殿を訪れ、女王からの任命を受けます。しかしながら今回は、96歳と高齢のエリザベス女王が、歩行が困難であるということで、異例のことではありますが、新たに首相に就任するトラス氏がスコットランドを訪れることとなりました。
このとき、杖をついていたエリザベス女王が、トラス氏と対面する様子が映像で報道されました。女王が死去したのは、そのわずか2日後の、9月8日のことでした。多くのイギリス国民が、突然の悲しみに襲われて衝撃を受けている様子が日本でも報じられています。というのも、そのわずか3カ月前には、即位70周年となる「プラチナ・ジュビリー」がイギリス中で祝福され、その際にはでエリザベス女王の生き生きとした姿が映し出されていたからです。私は、このときには、イギリスのケンブリッジ大学に在外研究中でした。イギリスでは多くの家庭が、この史上最長の在位期間を誇るエリザベス女王の「プラチナ・ジュビリー」を祝して、窓や玄関、屋根に、「ユニオン・ジャック」のイギリス国旗を掲げていました。それに関連した多くの記念品も、さまざまなショップで売られておりました。すでにエリザベス女王は、19世紀のヴィクトリア女王を抜いて、歴代で最長の在位期間となりました。そのため、イギリス国民の大半は、新国王の即位ははじめての経験となります。
女性であるエリザベス女王が、女性の首相を任命したのは、サッチャー氏、メイ氏に続いて、トラス氏が三人目となります。ブレグジット後のイギリスでは経済の混乱が続き、またコロナ・ウイルスもイギリス社会に大きな傷跡を残しました。さらには、ヨーロッパのウクライナでは依然として戦争が続いており、それにも関連してエネルギー価格は高騰し、高いインフレも続き、イギリスの人々の生活を圧迫しています。そのようななかで、長く国民に愛されてきた女王と、新たに就任した若き女性首相。この二人の女性によってイギリスの将来が明るい方向へと導かれることが期待されていました。その幸先に、国民にこれまで永く愛されていた女王が死去したことは、多くのイギリス国民にとって衝撃であったと思います。長く慣れ親しんできた「エリザベス時代」が終わり、イギリスはトラス新首相のもとで、新しい時代へと突入することになります。
このようにして、女王の死去は、1952年から70年間続いた「エリザベス時代」の終わりを意味します。その始まりとして、戦後復興の最中、第二次世界大戦の英雄であった高齢のウィンストン・チャーチル首相の下で、エリザベスは戴冠式に臨んでいます。エリザベス女王は、大衆化が進み、急激な社会変動を経験するイギリスにおいて、品格と愛情に溢れた数々の言葉で国民を鼓舞してきました。また国民を癒やして、人々に安心と安寧を提供してきました。多くのイギリス国民がその訃報に接して悲しみに暮れているのは、そのような安心と安寧を失うかもしれないことの不安からくるものかもしれません。
一方で、新たに首相に就任したトラス氏は、ファースト・ネームが「エリザベス」と、長い治世に幕を閉じた女王と同じです。そのトラス氏は、幼少期は労働党員の両親の下で育ち、またオクスフォード大学時代には自由民主党の学生団体に所属して、一時は王制廃止の主張を行っていた時期もありました。はじめての女性首相となったサッチャー氏の指導力に憧れていたと、トラス氏はメディアで話しています。確かに、確信に満ちた語り方や、その服装など、サッチャー氏をモデルにしている様子がうかがえます。サッチャー氏に比べると明確な国家観や政治理念を持っていないように論じられていますが、他方でトラス首相の方が明るく、楽観的で、また他者を説得し魅了する能力にも長けているようにも感じます。
しかしながら、他方で、サッチャー首相の時代と比べても、現代のイギリスではあまりに多くの困難な問題が溢れています。さらには、かつての国際的影響力に翳りがみえるなかで、国民投票によるEU離脱によって、国際的に連携すべきパートナーにも限りがあります。はたして、トラス政権はサッチャー氏のような長期政権になるのでしょうか。あるいは、2年後の下院の総選挙で敗北して、わずか二年間の短命政権で終わってしまうのでしょうか。まずは、今年の秋から冬にかけて、エネルギー価格高騰問題にトラス政権が適切に対応できるかどうかで、政権の運命は大きく左右されるでしょう。
トラス政権の外交にとっては、インド太平洋地域、とりわけ日本との関係が鍵となっていくのでしょう。
トラス氏は国際貿易大臣として、ブレグジット後のイギリスにとっての最初の主要な貿易協定となる日本との包括的経済協定を、2020年10月に締結することに成功しました。また、2021年2月には、CPTPP、すなわち「環太平洋パートナーシップに関する包括的及び先進的な協定」への加入を申請しており、そのなかでの最大の経済大国である日本との関係が今後はよりいっそう重要になっています。日英で初めて、次期戦闘機を共同で開発する計画が進んでいるのも、そのような日英関係の緊密化の一つの象徴と言えます。
外務大臣としては、EU離脱協定の北アイルランド議定書をめぐってEU諸国との関係を悪化させ、さらには中国やロシアに対して歯に衣を着せぬ激しい言葉での批判を繰り返してきました。そのようななかで、インド太平洋地域におけるアメリカや日本との関係を強化していくことが、ブレグジット後のイギリスのグローバルなアイデンティティ、すなわち「グローバル・ブリテン」にとっての鍵となります。
新しい国王チャールズ三世の治世がはじまりました。また、トラス新首相はイギリスの国際的な地位を向上させ、困難な経済的な課題や、外交課題に取り組む強い意欲を示しています。イギリスにとって巨大な政治的問題として迫ってくるのは、コモンウェルスの一体性、さらには連合王国の一体性についてです。コモンウェルス諸国の中には、立憲君主制から共和制へと移行する意向を示している国も見られ、すでに昨年11月にはカリブ海のバルバドスが共和制に移行しました。長い治世で、世界中の人々から愛されてきたエリザベス女王が死去したことで、そのようなコモンウェルスの絆がはたして維持できるのか、新国王と新首相は新たな課題に向き合うことになります。また、EU離脱後に混乱が続く中で、北アイルランドやスコットランドの中には、連合王国からの独立へ向けた動きも見られます。
これまで、時代の変化とともに、イギリスという国家も、そしてイギリスの王室も、柔軟にそれに対応することで荒波を乗り越えてきました。新国王と新首相が、これらの困難を乗り越えて、イギリス国民やコモンウェルスの人々の心をつなぎ止めることができるのか。この後も注目していきたいと思います。