木村朗子「31文字が織りなす世界の魅力」
2022年08月29日 (月)
津田塾大学教授 木村 朗子
先日、2024年の大河ドラマの主人公が紫式部となることが発表されました。
紫式部は『源氏物語』という世界で初めて大河小説を書いた女性作家として知られていますが、紫式部は、同時に歌人でもあったのです。
といいますのも、『源氏物語』には、登場人物たちが交わす795首もの和歌が含まれていて、その全てを作者が登場人物になりかわってつくっているのです。
物語の構成も素晴らしいですが、一人ひとりの個性を歌で描き分けた手腕も比類なきものでした。今日は、57577の31文字が織りなす世界の魅力についてお話ししたいと思います。
それでは実際に『源氏物語』に出てくる和歌をみてみましょう。
『源氏物語』に最初に登場する和歌は、光源氏の母、桐壺更衣が、光源氏の父、桐壺帝に向けて詠んだ歌です。
限りとてわかるる道の悲しきにいかまほしきは命なりけり
いまは限りということであなたと別れる道行きはかなしい。生きていたい、という歌です。平安宮廷は一夫多妻で営まれていました。帝には多くの妻格の女性たちがいましたが、桐壺更衣はことに深い寵愛を受けていました。その結果として、美しい光源氏が生まれるわけですが、桐壺更衣は、女性たちの嫉妬ややっかみに疲弊して、病をうけて死んでしまいます。これは桐壺更衣が詠んだ別れの歌です。
二人の深い愛情のもとに生まれた『源氏物語』の主人公、光源氏は第二巻ですでに17歳の青年となって登場します。年上の男性たちが語る恋人談義に触発されて、光源氏も理想の女性を求めて恋の冒険へとくりだします。
平安宮廷では生みの親が自ら子育てをすることはなく、乳母に子育ては任せています。
光源氏をはじめ、平安貴族はみな乳母に育てられていたのです。
その乳母が病気で寝込んでいるというので光源氏はお見舞いに訪れます。
そのときに乳母の隣家に住む夕顔が光源氏に次の歌をよみかけてきます。
心あてにそれかとぞ見る白露の光添へたる夕顔の花
あて推量にそうなのではないかと思ってみています、白露の光が添えられた夕顔の花を、という歌です。あなたは光源氏ではありませんか?という問いかけに、光源氏は次の歌を返します。
寄りてこそそれかとも見めたそかれにほのぼの見つる花の夕顔
近寄って、そうかどうか見たらどう?黄昏にぼんやりと見た花の夕顔を、という歌です。お付き合いしましょうとこたえている歌で、二人の関係がはじまります。夕顔と二人で顔を見合わせてゆっくりと過ごしたとき、出会いの歌をふまえて、光源氏は、それで実際に会ってみてどうでしたか?という意味の歌を詠みかけます。
夕露に紐とく花は玉鉾のたよりに見えしえにこそありけれ
こうして夕べの露に紐をといて花ひらくように顔を見せるのは、あのとおりすがりの道中でお会いした縁によるものだったのですね、という歌です。この歌に添えて、光源氏は「露の光やいかに」と言います。夕顔が光源氏に送った歌、「心あてにそれかとぞ見る白露の光添へたる夕顔の花」に対して、「黄昏どきでよく見えないでしょう、近寄って見てみたら?」と返歌したことをふまえているのです。実際に顔をみてどう思った?と感想をきいています。この問いかけに対して夕顔は次の歌でこたえます。
光ありと見し夕顔のうは露はたそかれ時のそら目なりけり
光があるように見えたのはたそがれ時の見間違いでした、という歌です。実際に見てみたらそんなにすてきではなかった、という意味です。ずいぶんと失礼なものいいです。ところが光源氏は「をかしとおぼしなす」と反応して、いい返事だと判断しているのです。このように男女の歌では、男性の誘う歌に対して、女性の方がそっけないそぶりをみせるのがふつうで、こうしたやりとりがおもしろく交わせるほどよい関係だということになります。
それに対して、打てば響くようなうまい歌がかえってこない女性との関係はつまらないものだとみなされます。たとえば末摘花は歌が下手な人として描かれていますが、いつも同じ語彙ばかりを使って、同じような歌を送ってくるのです。例えば次のような歌でした。
唐衣君が心のつらければ袂はかくぞそほちつつのみ
着てみれば恨みられけり唐衣返しやりてん袖を濡らして
我身こそ恨みられけれ唐衣君が袂に馴れずと思へば
あなたがつれないので「唐衣」の袖や袂を濡らして泣いています、という歌ばかりを同じような調子で送ってくるのです。これに対して光源氏は、こんな嘆きの歌を詠んでいます。
唐衣又から衣からころもかへすがへすも唐衣なる
ああ、いつもいつも「唐衣」ばかりだな!という歌です。思わず笑ってしまいますね。
この歌は末摘花には送られることはなく、読者が笑うためにつくられました。
『古今和歌集』などの和歌集には恋の歌が圧倒的多数を占めていますが、和歌は恋心をうたうばかりではありませんでした。光源氏の父親、桐壺帝が朱雀帝に譲位し、死んでしまうと、光源氏は政治的後ろ盾を失って、朱雀帝を支える右大臣家に政界を追われます。都を離れて須磨へ蟄居した光源氏は都に残してきた女性たちと歌を交わします。通いでやってくる光源氏がいなくなってしまって光源氏をたよりに生きていた幾人かの女君たちは経済的に困窮します。花散里とよばれる女君がその一人でした。そこで須磨へこんな歌を送ってきます。
荒れまさる軒のしのぶをながめつつしげくも露のかかる袖かな
和歌は掛詞をくししてつくられるのですが、ここではしのぶに、耐え忍ぶという言葉と、雑草のしのぶ草がかけられています。家の手入れをする経済基盤をうしなって荒れ放題。軒にはしのぶ草が生えてきています。そんな荒れ果てた軒をながめながら涙で袖を濡らしていますという歌です。ながめ、にはながめるということばと長雨が掛詞になっているので、雨から露という言葉が引き出されています。この歌を受け取った光源氏は、すぐに了解して、都にいる従者に命じて花散里の家を手入れするように指示しています。
このように和歌にはさまざまな側面がありました。これらを書き分けた紫式部は物語作者としてだけではなく、すぐれた和歌のつくり手だったといえるのではないでしょうか。
現在は、空前の短歌ブームで若手歌人の歌集が多く出版されています。
津田塾大学で和歌の講義をしたときには、導入として現代短歌を紹介しました。
学生たちは、和歌というと難しいイメージがあったがとても自由であること、31文字におさめるからこそ言えることがあることに気づいたといいます。また歌の形式があれば、いま抱えている思いを他者とわかちあうことができることにも気づきました。
実際に学生たちはコロナ禍のオンライン授業について、こんなふうに詠んでいます。
朝起きて学校行かずに画面前もはや今ってSFの中
顔見れぬZoom授業で知れるのはミュート外した その時の声
実際に短歌をつくってみると古典和歌の世界もぐんと身近に感じられるようになるでしょう。千年の昔の和歌も、つくられた当時は現代短歌でした。ことばは変わっても31文字の文芸はいまに生きているのです。