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『新時代の「人間の安全保障」』(視点・論点) 

国連開発計画 駐日代表 近藤 哲生

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持続可能な開発目標、略称SDGsが2015年に国連で採択されてから7年がたち、達成期限の2030年まであと8年と、中間地点を迎えます。
しかし、世界はコロナ禍という未曾有の感染症から未だに抜け出せず、また、アフガニスタンやミャンマー、イエメン、そしてウクライナなどでは、重大な人権侵害や紛争が再燃しています。ほかにも、気候変動や格差の拡大など、世界は数々の脅威に襲われています。

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そんな中、今年2月、国連開発計画(UNDP)は「人間の安全保障に関する特別報告書〜人新世の時代における人間の安全保障への新たな脅威〜」を発表しました。この報告書のキーワードは「人間の安全保障」という言葉です。きょうは報告書の内容とともに、日本や世界が直面している脅威に対して、どのように向き合い、乗り越えていくべきかについてお話します。

そもそも「人間の安全保障」は1994年、UNDPが「人間開発報告書」で初めて提唱した概念です。冷戦の終結を受け、「軍事力を用いて領土を守る」という国家中心の安全保障から転換し、「人間一人ひとりが紛争や災害、感染症などの『恐怖』、そして食料や教育、医療など生きていく上で必要なものの『欠乏』から自由になり、尊厳を持って生きられる社会」を目指すという、人間中心の新しい安全保障のあり方を提示したことが画期的とされました。
この概念と日本との間には深い関わりがあります。

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この考え方を国際社会の中で広めた一人が、国連難民高等弁務官を務めた故緒方貞子さんです。緒方さんはノーベル経済学賞を受賞したアマルティア・セン氏と共に、2003年に、「人間の安全保障の今日的課題」と題する報告書を提出しました。グローバル化が進み従来の方法では国家が人々の安全を守りきれなくなる中、社会的弱者一人ひとりを保護し、その能力を伸ばす、つまりエンパワメントをすることで、個人やコミュニティの安全を守ることが重要だと訴えたのです。
日本政府は「人間の安全保障」の考え方を外交政策の中心に据え、長年、積極的に推進してきました。歴代の首相も、この考えの重要性にスピーチなどで繰り返し触れています。

今回、UNDPは、特別報告書のなかで、従来の「人間の安全保障」の考えを引き継ぎつつ、新時代の脅威を考慮に入れた新たな「人間の安全保障」のあり方を示しました。詳しく見ていきましょう。

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これは教育・健康・生活水準を総合した尺度である「人間開発指数」の世界全体の数値を示すグラフです。ここ30年間、コロナ禍の前まで、数値が向上し、開発が進んできていることがわかります。一方で、いま、全世界のほぼ7人に6人が、不安を感じながら暮らしているということもわかりました。表面的には発展が進み、暮らし向きが改善しているように見える一方で、人々が不安感を募らせているのはなぜでしょうか?

この不安の理由として、報告書は、人類を襲う新世代型の5つの脅威を挙げています。

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気候危機、感染症などの健康への脅威、高度なデジタル技術、不平等、暴力による紛争です。また、これらの脅威は相互に絡み合うことで、さらに問題を複雑化させています。
一つずつ見てみましょう。

まず気候危機です。
人間の活動が地球の生態系や気候に大きな影響を与えるようになったヒト中心の時代、人新世が到来したと言われています。経済成長ばかりを重視し地球に負荷をかける開発を進めた結果、世界では不平等が拡大し、気候変動やそれに伴う災害が深刻化しました。生物多様性が失われ、逆にコロナ禍など、未知の感染症の危機が出現しました。

しかし、災害など、気候変動による被害を最も大きく受けているのは社会の弱者層です。つまり気候変動が格差を拡大しているのです。今後、温暖化に対し一定の対策を行ったとしても、今世紀末までの気温上昇により、気候変動を原因として途上国を中心に4000万人が命を失う恐れがあると報告書は指摘しています。

これまでは紛争や災害から「個人やコミュニティ」の安全を守ることに主眼が置かれていましたが、報告書では、新たな考え方として、人類のみならず地球全体の安全も守っていくことを訴えています。

気候変動の影響や未知の感染症が国境を超えて地球と人類全体に打撃を与えるのは明らかです。すべての人そして地球が安全でなければ誰も安全ではないのです。

次に、健康への脅威です。コロナ禍のような感染症の世界的大流行は将来増えてくると予想されています。健康は、「人間の安全保障」の基本であり、人が生きる上での自由と充実感は、健康にかかっています。所得にかかわらず、質の高い医療を支払い可能な負担で受けることができる制度、すなわちユニバーサル・ヘルス・カバレッジの実現がすべての国で求められます。また、生活習慣病による医療費の負担を減らすことも大切です。

3番目に、デジタル技術の脅威です。コロナ禍により加速したデジタル技術は、環境負荷を減らし、医療の感染リスクを抑えるなど、生産性向上につながる可能性があります。一方で、急速なデジタル化は、不平等や暴力的紛争の拡大にもつながる脅威となり得ます。また、サイバー犯罪も急増しており、その被害や対策のコストは、2021年末までに6兆ドルにものぼると見られています。この問題に対しては、市場を独占している一部の企業の手にゆだねるばかりではなく、各国政府や国際機関などが一致して取り組む必要があります。

4番目に、不平等です。コロナ禍で明らかになったのは、人間の安全保障が弱い立場にある人ほど社会から取り残され、複合的な問題に晒されていることでした。例えば、女性は、家族皆がステイホームすることによる家事労働の負担の増加と、ドメスティック・バイオレンスの急増という問題に直面しました。また、都市部の貧困層は感染リスクが増え収入が減るという二重の打撃を受けています。さらにコロナ禍により飢餓が拡大し、現時点で地球人口約80億人のうち、約24億人が食糧不安を抱えています。

最後に、この貧困と格差は、暴力的紛争の引き金となります。
現在、ロシアによるウクライナへの軍事攻撃によって世界が揺るがされていますが、私が以前勤務していた旧ユーゴスラビアのコソボでは民族対立による紛争がありました。当時、UNDPは、日本政府の支援も得て、「人間の安全保障」の考えに基づき、紛争被害を受けた女性や子供の生活、栄養状況、教育、治安などを回復するプロジェクトを行い、状況を安定させました。紛争の最中こそ、人間の安全保障の意義に再び目を向けるときです。

人類が様々な取り組みを結実させるうえで、新時代の脅威に対しては、課題ごとに別々に対応を考える縦割り型の対策のみでは不十分であり、人々の生き方そのものを見直す必要があります。報告書は、アマルティア・センの言葉を引用して「自分自身の価値観や目的観によって判断できる人」が必要であると指摘しています。脅威に立ち向かいSDGsを達成するためには、私たち一人一人の価値判断と行動、そして人類同士、また人類と地球が「連帯」できるかが問われています。

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