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「がん患者支援を考える」(視点・論点)

静岡県立静岡がんセンター 総長 山口 建 

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 今、日本は、2人に1人ががんに罹るという「がんの時代」のまっただ中にいます。その一方で、治療成績は向上しました。約半世紀前、3割程度であったがんの治癒率は、今は6割程度まで高まっています。
治療成績の向上とともに、がん患者さんの様々な苦しみを和らげ、生活の質、Quality of Lifeを高める取り組みが進められました。そのための手段として、第一に、患者さんに優しい治療技術が追求され、第二に、支持療法や緩和ケアなど、患者さんの苦痛を和らげるケアの充実が図られました。
本日は、「がんを治し、患者を支える」というテーマについてお話しします。

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がんの治療は、手術、放射線、薬剤が三本柱です。半世紀前、がん患者さんの多くは、手術の後、傷の痛みで七転八倒し、放射線治療では後遺症に悩み、薬物療法では、激しい吐き気や血液障害などの副作用に苦しみました。がんが悪化した場合の症状も上手く抑えることができませんでした。

それが、今では、負担が少ない治療法が普及しています。

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手術については、内視鏡手術やロボット支援手術など、患者さんの負担を抑える「低侵襲性手術」が広く行われています。
放射線治療では、高精度照射や粒子線治療のような、「ピンポイント照射」が実用化されています。
薬物療法では、副作用を抑えた分子標的薬や免疫チェックポイント阻害剤などの新薬が用いられています。

次は、患者さんの身体と心のケアについての取り組みです。
がんと診断され治療を受ける患者さんとそのご家族は、不安と苦痛にさいなまれます。

私たちは、がんの患者さんが体験する様々な苦痛や悩みや負担の実態を調べました。
約1万2千名の全国の患者さんを対象にした調査により、患者さんやご家族は、大きく分けて4つの苦しみに直面することがわかりました。

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「身体の苦痛」には、がんによる症状や治療に伴う副作用・後遺症などが含まれます。
「診療の悩み」には、病院の選択、医療スタッフとの信頼関係、説明を理解出来ないことなどが含まれます。
「心の苦悩」には、不安や恐怖、うつ状態、さらには、自らの生き方を見失うことなどが含まれます。
「暮らしの負担」とは、収入が減り、あるいは仕事を失うことや、人間関係の悪化などを指します。
 
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身体と心のケアは、これらの苦しみを和らげるための取り組みです。
支持療法は、全身をケアし、身体の不調に対処します。
心のケアは様々な形で闘病生活を支えます。
緩和ケアは、がんの症状を和らげるとともに、最期の看取りまでを担当します。
適切な情報提供は、治療の道筋を把握し、不安の解消に役立ちます。
相談と支援は、困難を克服するための重要な手段です。
静岡がんセンターでは、年間5万件を越える患者さんやご家族からの相談に対応しています。全国のがんの拠点病院でも、相談支援センターが整備され、同様な対応が可能となりました。

このような「がんを治し、患者を支える医療」を実践することで、患者・家族の苦しみは、以前に比べて、ずいぶん和らぎました。しかし、まだ、対応困難な分野も残されています。患者さんの病状が悪化し、最期を看取るまでの患者・家族の心のケアはその代表です。

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図には、がん治療の経過をまとめています。がんと診断され、治療を受けた後、経過観察に入ります。がんの種類によって5ないしは10年間、再発がなければ治癒と判断されます。現状、約6割の患者さんで治癒が達成されています。
一方、がんの再発が見つかると、再発治療が行なわれます。再発治療でも、一部は治癒が期待できますが、多くは、延命の後、病状が悪化し、死に至ります。約4割の患者さんはこのような経過をたどります。
この病状悪化から死に至るまでは、患者さん、ご家族、医療スタッフにとって大変苦しい時期になります。
社会状況も影響します。寿命が延び、戦争や結核などによる不条理な死が減少し、死は遠い存在となりました。日本では、宗教の関与も大きくはありません。その結果、死と向き合う患者さんの心の負担は、逆に以前より増しています。生活の質、Quality of Lifeに対して、死の質、Quality of deathという言葉がありますが、これを高めることもがん医療の新たな挑戦です。

半世紀の患者さんとのお付き合いのなかで学んだ一つのヒントが「物語に基づく医療」です。患者さんやご家族は悲しみを乗り越え、死を受け入れるために、自分たちの物語を紡ごうとします。私が経験した事例を紹介します。

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再発乳がんが悪化し、余命幾ばくもないと悟った女性は、ある日、「先生、お願いがあります」と切り出しました。
「自分は、もう長くは生きられないのでしょう。でも、心配なことがあります。夫は一人で生活する事ができません。食事も洗濯も家計も・・。大変申し訳ないが、先生に後のことをお願いしたいのです」。
そういって患者さんは、夫の食事の嗜好、服装、貯金通帳の置き場などについて話し始めました。
「先生にそんなことを言っても」と何度も話を遮ろうとした夫も、やがて嗚咽をもらしながら病室の外に出てしまいました。
真剣な患者さんと途方に暮れた医師との二人きりの会話は、こうして一時間ほど続きました。話し終えると、患者さんは晴れ晴れとした顔になり、疲れたのか目を閉じました。彼女が旅立ったのはその数日後のことでした。

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母子家庭に育ち、乳がんで母を亡くし、ひとりぼっちになった幼い少年は親戚に預けられました。
母の形見で、母の写真が待ち受け画面になっている携帯電話を手放そうとせず、寂しくなると天国の母にメールを送ります。しかし、返事は帰ってきません。
寂しくなると病院を訪ね、遊びながら子どもを癒す役割のチャイルドライフスペシャリストと話します。少年は、こうして悲しみを乗り越え、病院を訪れなくなりました。

こうした事例は、患者さん、ご家族の思いを尊重した「物語に基づく医療」と呼べるもので、死が間近に迫った患者さんや残されるご家族を癒やし、「死の質」を高めています。2020年、日本では、がんによる死者38万人を含め、137万人が亡くなられました。その一人ひとりとご家族には、百数十万の物語があるはずです。その物語を大切にすることが、悲しみを乗り越えるのに役立つことでしょう。

私は、常々、医療スタッフには、「医学は科学、医療は物語」という言葉を伝えています。「科学に基づく医学」は不可欠だが、それが限界を迎えたときには、患者さんやご家族の思いを尊重した「物語に基づく医療」の実践をお願いしたい、という心が込められています。

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