「アスリートのメンタルケア」(視点・論点)
2021年11月02日 (火)
国立研究開発法人国立精神・神経医療研究センター 精神保健研究所 常勤研究員 小塩 靖崇
今年夏に行われた東京オリンピック・パラリンピックでは、多くのアスリートの活躍を目の当たりにし、感動・感激を経験しました。この間、著名なアスリートのメンタルヘルス不調や治療経験の告白により、アスリートのメンタルヘルスやそのケアのあり方を考える機会となりました。
過酷な鍛錬を続け、勝利を目指す精神力には驚かされる一方、「屈強な身体に強靭な精神を備えるアスリートは心の不調とは無関係」と信じられている場合もあり、アスリート自身もそうでなくてはならないと感じていることも少なくありません。これまで日本のスポーツ界ではアスリートのメンタルヘルスはタブー視されることもあって、見過ごされがちでした。アスリートのメンタルヘルスケアの発展は、一般社会へのインパクトも大きいと思われます。本領域への機運が高まっている今、今日は日本スポーツ界でのメンタルヘルスケアのあり方についてお話をいたします。
アスリートのメンタルヘルスは、この数年で国際的な関心事になりました。2018年からこれまでに、国際スポーツ機関や学術団体から、少なくとも9件の声明文書が発表されています。このような動きの背景には、著名なアスリートが、自身のメンタルヘルスについて告白をしたことがきっかけとしてあります。それを機に、欧米諸国、オーストラリアではアスリート集団としての実態調査が行われ、アスリートにもメンタルヘルス不調や障害がめずらしくないことがわかってきました。
これまで発表された声明文では、いずれもアスリートのメンタルヘルス不調は高頻度に発生していること、メンタルヘルスケアシステムの開発が急務であることを伝えています。それに向けて、2つの課題が示されています。1つは、アスリート個人だけでなく、周囲のスタッフ、組織全体を対象にした取り組みが求められること、現状ではフィジカルヘルスとメンタルヘルスの優先度にかなり開きがあり、これを同程度に持っていくことが望まれます。
2つ目は、この分野の教育-医療-研究の推進が必要だと述べられています。現場でのメンタルヘルスの理解を高めること、医療側でもアスリートをみる機会を増やし、それができる人材を増やすこと、そういった取り組みを通じてデータを蓄積し、効果的な実践の精度を高めていくことが求められています。
これらの声明文は、膨大な論文や調査結果を基に発表されていますが、実は、その知見のほとんどは、欧米諸国・オーストラリアのもので、ここに日本からの知見は含まれていませんでした。日本のアスリートのメンタルヘルス研究はほとんど進んでいない状況です。
このような日本スポーツ界での課題解決に向けて、私たちはアスリートと研究者・医療者での共同研究プロジェクトを立ち上げました(PDF 3pp)。専門性の異なる者同士で、日本のスポーツ界でのメンタルヘルスケアのあり方を考えるための研究を始めています。
海外からはIOCのメンタルヘルスワーキンググループから助言を受けながら、国際比較を進めています。
2019年12月〜2020年1月に、日本のラグビー選手に行った調査結果を紹介します。このwebアンケートを用いた調査は、ラグビー選手会を通じて各チームに配信されて実施、回収されたデータを私たちが解析しました。
回答を得られた251選手のデータからわかってきたことは、日本のラグビー選手において、この1ヶ月で42.2%の人が不調を経験していました。この割合は、一般の人や海外のアスリートと同程度、あるいは少し多い割合で、日本のアスリートであるラグビー選手においても、不調や障害が生じているということです。
内訳としては、42.2%のうち、32.2%の選手が心理的ストレス状態、残りの10%は専門的支援が必要な状態でした。そのほかに、希死念慮、つまり死にたい気持ちを抱えているかを聞いており、
本研究対象の集団では、7.6%の選手が死にたい気持ちを抱えていたことを示しました
この調査では、選手たちの最近のライフイベントや生活習慣の状況も聞いています。これらの、不調の有無との関連を調べたところ、不調の選手はそうでない選手と比べ、疲労や食欲・睡眠の変化、または競技力の低下や引退後の生活を考えるなどとの関連が見られ、因果関係はわからないものの、不調者が抱えている課題の傾向が見えてきました。
さらに、アスリートにとってどのようなメンタルヘルスケアが求められるのかを考えるため、メンタルヘルスの知識や態度、相談に対する考えの関係を調べました
1つは「うつの症状が重いこと」と「相談しようと考える傾向が小さいこと」に関連がありました。うつ症状が重いほど、相談できていない可能性が考えられます。
2つ目は、「知識度が高いこと」と「メンタルヘルス不調を抱える人への肯定的な態度」に関連がありました。知識が高い人は、不調を抱えた他者に手を差し伸べることができると言えるかもしれません。
3つ目は、「知識の程度」と「自身の不調時の相談行動に関する考え」には関連がありませんでした。自分が不調の時に、メンタルヘルスの知識があっても、言い換えると頭でわかっていても、誰かに相談しようと考えられないと言えるかもしれません。これらの結果は、メンタルヘルスケアを促すために相談しやすい環境を作ることの必要性を示しています。
今の社会では、「メンタルヘルスの問題を抱えるのは心が弱い人」と考えられがちです。メンタルヘルスを自分事として考えられるようにするため、日本ラグビーフットボール選手会と共に「よわいはつよいプロジェクト」を立ち上げました。誰もが、不安や悩み、時に心の不調を経験しているにもかかわらず、そうした心の様子を人に語るのは「よわい」人間がすること、という風潮があります。そのイメージが相談への抵抗感に影響し、健康や幸福にとって大きな障壁になる場合があります。アスリートは「つよさ」の象徴として捉えられ、特に相談への抵抗感が強い集団かもしれません。このプロジェクトでは、不調を含め心の状態を受け入れること、つらさを一人で耐えるのではなく、信頼できる人と支え合うという心のあり方を共有する場を提供しています。
例えば、日本代表として活躍されている選手ご自身による不調の経験、なかなか相談できなかった経験、その背景にある思いも含めて共有してくださっています。こうしたアスリートの言葉は、他のアスリートだけでなく一般の人にも、自分自身・身近な人の心の様子について新たな視点を与えるものだと考えています。
アスリートのメンタルヘルス研究や実践の発展は、一般社会へのインパクトも大きいと思われます。特に、若者世代、学校の部活動などでのメンタルヘルスケアのあり方を考える機会になると考えています。アスリートも一人の人間であることへの理解を深めるとともに、競技団体、チーム、などによる組織的な体制を作ることが求められます。
今の社会は、不調や病を経験して初めてメンタルヘルスが自分ごとになると言えるかもしれません。「メンタルヘルスをじぶんごとに」をキーワードに、メンタルヘルスの啓発活動が広がることが望まれます。