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「パラリンピック選手の『脳の再編』」(視点・論点)

東京大学大学院 教授 中澤 公孝

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 東京パラリンピックが8月24日に開幕しました。世界中から様々な障がいがあるアスリートが集まり、オリンピック選手同様、最大のパフォーマンスを発揮しようとする姿を見せてくれています。皆さんはパラリンピック選手が一生懸命にプレーする姿を見てどのように感じるでしょうか?私自身は、身体のどこかに障がいがあってもここまでのパフォーマンスを発揮できるのは凄い、といつも感心しながら見ていました。今でもその見方は変わらないのですが、最近、もう一つの見方が新たに加わりました。
それは、「パラリンピック選手は人間の未知の能力・可能性を見せる最高のモデルである」、という見方です。私は、東京オリンピック・パラリンピックの開催が決まってから、パラリンピック選手の脳を研究するようになりました。その過程で、次々と驚くべき発見をしました。それはパラリンピック選手の『脳の再編』、つまり脳が驚くほど変化していることがわかったのです。今日は私たちが行ってきたパラリンピック選手の『脳の再編』に関する研究をご紹介し、皆さんが新たな視点でパラリンピックについて考えるきっかけになればと思います。

いうまでもないことですが、パラリンピック選手は例外なく何らかの障害があります。身体の一部に障害を負うと脳はそれを補おうとして、いわゆる代償的な変化が起こりやすくなります。パラリンピック選手の脳はそれに加え、トレーニングに伴う変化が生じるため、健常者の代表であるオリンピック選手に比べてよりわかりやすい大きな脳再編が生じると考えられます。この脳の再編は、競技パフォーマンスを最大化するための限界に近い身体トレーニングと、勝利や記録突破をめざす高いモチベーションがもたらすものであり、人間にとって最高水準の脳再編とみることができます。

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この図をご覧ください。これは世界的に有名な義足の走り幅跳び選手、マルクス・レーム選手が下肢の各関節周りの筋肉に力を入れたときに、脳のどの部位が活動するかを調べた実験の結果です。赤や黄色の部分がそれぞれの関節に力を入れたときに活動していた領域です。通常、脚の筋肉に力を入れる時は、その脚と反対側の脳の頭頂部に近い当たりが活動します。この図でいえば、彼が義足側の膝周りの筋を活動させたとき以外はすべてそのような活動がみられました。これは、健常者が手や足の筋肉を動かす時には、動かそうとする筋肉と反対側の脳が単独で命令を出すからです。ところがレーム選手の場合、義足側の膝の筋肉を動かす時には、通常の反対側の脳と共に同じ側の脳、これを同側の脳と呼びます、つまり同側の脳が活動していたのです。私たちはこのような結果を全く予想していなかったためかなり驚いたのですが、その後、彼と同じ膝下切断で競技をしていない人たちを何人も調べたところ、同側の脳が活動する人はいませんでした。

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しかしパラリンピック選手で、走り高跳びの鈴木徹選手を調べたところ、レーム選手と同じように義足側の膝の筋肉を動かすときに同側の脳活動がみられたのです。ここに至って私たちは、鈴木徹選手に次の仮説を証明するための実験に参加することをお願いしました。その仮説とは、「動いている筋と同側の脳活動は、健常者では働いていない脳と筋肉をつなぐ同側の神経経路が活動していることと関係している」というものです。

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この仮説を検証するために経頭蓋磁気刺激という方法を用いました。もし同側の脳活動が同側神経経路の活動を反映しているのであれば、その部位の脳細胞を刺激して神経インパルスを誘導すれば、それが結合している筋が反応するはずである、という仮説の基に実験を行ったのです。その結果、見事に同側の筋肉から強い反応が観察され、同側の神経経路が活動していることが明らかとなりました。先ほど述べましたように、通常は反対側の脳からの神経経路のみが働くのであって、同側の神経経路は健常者では働いていません。その経路が、今回調べた義足の高跳び選手においては、義足を最終的に動かしている筋においてのみ使われていることが分かったのです。このことは、おそらく日常生活では必要の無い、競技特有の運動技術を習得するためのトレーニングに関係していると予想できます。つまり、競技に必要とされる極めて高度な義足操作技術を習得する過程で、健常者では使われていない同側の神経経路まで使われるようになったと考えられるのです。従来、同側の神経経路は脳性麻痺の子供や脳卒中の後遺症が残った方で使われることがあることは知られていました。しかしそれが義足アスリートでみられるとは、まったく予想していなかったことでしたので、かなりの驚きだったのです。

もう一つの例をご紹介します。それはパワーリフティングです。ベンチプレスでどれだけ持ち上げられるかを競う競技です。パラリンピックでは下半身の障がいがある人の競技となります。この競技は、その記録が健常者より優れている唯一の競技として知られています。私たちはパワーリフターの脳を調べている過程で、上肢(手)のある能力が高いことに気がつき、その能力について詳しく調べることにしました。その能力とは手でモノを握る力を精密にコントロールする能力です。この能力を詳しく調べたところ、パワーリフターは確かにその能力が優れていたのですが、実は脊髄を損傷して足が動かなくなった人たちの中で、特に損傷がひどく、完全に損傷してしまった人たちの能力がすごく高いことが判明しました。驚いたことに、その能力は健常者に比べてずっと高かったのです。さらに詳しく調べてみると、この能力の背後には脳の再編があることがわかりました。まだ直接証明することはできていませんが、私はパワーリフターの記録が健常者より優れている理由に、この脊髄完全損傷者で見られたような上肢能力の発達と脳の再編が関係していると考えています。脊髄を損傷すると、多くの場合、車椅子生活となります。自分の足で立って歩く能力を失うともいえますが、実は残された手の能力は健常者よりずっと高く発達するらしいのです。私はこの研究を通じ、障がいは失うことだけではない、残った能力が障がいがない人以上に発達する、というポジティブな側面があること、そしてその能力は障がいがない人では現れない人間の隠れた能力であることに気がつきました。

以上、今日はたった二例について紹介しましたが、多くのパラリンピック選手を調べたところ、日頃のトレーニングによって、パラリンピック選手の脳はその障がいと競技の特性に応じて様々に大きく再編していることがわかってきました。脳の再編がいかなる神経メカニズムの基に生じるのかを解明することは、リハビリテーションにおいてより効果的、効率的な機能回復を導く方法の開発につながることが期待できます。また、脊髄損傷者のように手の精密な力のコントロール能力が健常者以上に発達する例は、人間がそもそも持っているけれども、健常者では隠れている能力があることを意味します。健常者以上の能力は、障がいをおって、トレーニングをすることで初めて顕在化する能力ともいえます。つまり、パラリンピック選手はリハビリのお手本であると同時に人間の未知の能力・可能性を見せてくれる存在ともいえるでしょう。

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