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「南海トラフ地震「臨時情報」で起きること」(視点・論点)

京都大学防災研究所 教授 矢守 克也

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新型コロナウイルスの感染蔓延を目にして、多くの防災関係者が思い浮かべたことが一つあります。それは、南海トラフ地震に関する「臨時情報」に似ている、という印象です。感染の拡がりに伴って生じたマスク等の物資の払底・不足、多くのうわさや未確認情報、そして、相次いだ「中止・延期・自粛」による社会的活動レベルの低下、経済活動の停滞による暮らしや地域社会への打撃。これらのいずれもが、南海トラフ地震に関する「臨時情報」が発表されたときに予想される社会の反応を思い起こさせるのです。

 2019年度にスタートした「臨時情報」は、先行事象だと評価可能ないくつかの出来事をもとに、激甚な被害をもたらすと想定される南海トラフ地震・津波が、一定の期間内(1週間程度)に発生する可能性が通常よりも高まっていることを社会に警告するために、気象庁が発表する情報です。地震発生の可能性が事前に指摘されるわけですから、沿岸部に居住する津波避難困難者が事前避難するなどすれば、非常に大きな被害軽減効果が期待できます。最悪の場合、10万人をはるかに超えると予想される犠牲者数は激減するとも言われています。
しかし他方で、この情報の不確実性は、残念ながら非常に大きいです。

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内閣府が発表した「臨時情報に関する防災対応検討ガイドライン」によれば、「一部割れ」と呼ばれるケースの場合、臨時情報が発表されたあと、1週間程度の間に実際に地震が起きる可能性は、「数百回に1回程度」に過ぎず、「半割れ」と呼ばれる後発地震が発生する確率がより高いケースでも、「十数回に1回程度」とされています。
要するに、目安とされる臨時情報発表後1週間程度の間に地震が実際に発生するのは、多くて10回に1回くらいに過ぎないのです。臨時情報は十中八九以上外れる情報だということになります。しかも、仮に情報が発表されれば、企業活動、教育・福祉サービスの抑制・停止などによる社会・経済面への影響も非常に大きく、いい加減なうわさが広まったり、物資の買い占めが起きたりといった社会的混乱も心配されています。
このように、「臨時情報」は両刃の剣です。プラス面もあれば、マイナス面もあります。ですから、臨時情報を有効活用するためには、その光の部分を大きく引き出し、陰の部分を抑えるべく、関係者の事前協議や合意形成など、社会の側の周到な準備が不可欠です。

さて、最初に指摘したように、コロナ禍の社会と臨時情報発表後の社会には、私たちがきびしい〈二者択一〉、言いかえれば、「こちらを立てれば、あちらが立たず」というきびしいジレンマに直面するという共通性があります。
コロナ禍の本質が、「感染対策は急務だが、経済を“まわす”必要もある」という言い方に象徴されるジレンマ構造、つまり、きびしい〈二者択一〉にあることは明らかです。
臨時情報も同様です。「要支援者を中心に事前避難するのが望ましいのはわかっているが、おこるかおこらないかわからない地震・津波のために、社会的な活動を全面停止するわけにもいかない」は、「感染対策が急務だが、経済を“まわす”必要もある」のほとんどコピーです。「大規模な避難で、かえって医療・福祉・教育といったエッセンシャルな活動にダメージがあっては、元も子もない」も同様です。ジレンマを伴う〈二者択一〉とそのマネジメントという、コロナ禍で今私たちが経験しているのと同じ難題が、臨時情報が発表された後の社会でも発生すると予想されます。

コロナ禍と臨時情報対応に共通する特徴として指摘した〈二者択一〉の構造をもつ課題に対しては、阪神・淡路大震災の被災者や被災地の自治体関係者を対象としたインタビュー調査をもとに開発された防災教育ツール「クロスロード」を用いた事前トレーニングが有効だと思われます。ちなみに、「クロスロード」とは「分かれ道」のことで、そこから転じて、むずかしく大事な決断、を意味します。
「クロスロード」では、次のような〈二者択一〉の難問が提示されます。

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たとえば、「学校教育の早期再開にはマイナスですが、運動場に不足する仮設住宅を建てますか---YES(建てる)/NO(建てない)」、「家族同然の飼い犬を、犬嫌いの人もいるかも知れない避難所に連れて行きますか---YES(連れて行く)/NO(連れて行かない)」などです。自治体職員や一般市民にとって身近な、しかも切実な問題(実話)が多数取りあげられています。これらの難問について人びとがワークショップ形式でともに考え、実際に被災したときにどうするのか事前に考えておくのが「クロスロード」の主なねらいです。
「クロスロード」の手法は、すでに臨時情報対応にも応用されています。

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高知県黒潮町は、南海トラフ地震・津波で大きな被害が想定されている自治体の一つです。言いかえれば、黒潮町でも、臨時情報を有効に活用できれば、大きな被害軽減が見込まれます。

この黒潮町で、こんな問題を用いた「クロスロード」ワークショップが、中学生と保護者が参加して開催されました。

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「気象庁から、臨時情報が出されました。小学校や中学校を、一週間程度休校してほしいですか---YES(休校してほしい)/NO(休校してほしくない)」。
この設問をめぐって活発な議論が展開されました。ワークショップに参加した中学生のうち46%の生徒が「休校してほしい」と回答し、54%の生徒が「休校してほしくない」と回答しました。一方で、一緒に議論に加わった保護者のうち83%の保護者が「休校してほしい」と回答し、17%の保護者が「休校してほしくない」と回答し、意見には大きなばらつきが見られました。災害への備えを優先して休校するのか、ふだんの教育活動を優先するのか、住民の意見も固まりきってはいないのです。
しかも、「中学校では訓練を重ねているから問題ない。休校するとみんなで避難できないから不安」(生徒)、「学校が休校してしまうと、子どもたちはそれぞれの自宅から避難しないといけない。子どもたちしか家にいない時に地震がきたら、本当に逃げられるか心配だ」(保護者)など、浸水想定エリア内にある中学校に生徒が集まっている状態が、防災対策上、必ずしもマイナス材料とは考えられていないなど、地域住民が単純な〈二者択一〉の構造で事態をとらえていないこともわかりました。
いずれにしても、臨時情報については、その存在すら知らない人がまだ多いという根本的な問題があります。そして、知っているとしても、避難や防災を優先するのか、日常生活の継続を優先するのか、コロナ禍にも似たむずかしい〈二者択一〉にどこで折り合いをつけるのか、現時点でしっかり考えている人はまだほんのわずかというのが現状です。コロナ禍での経験を生かしつつ、今後、準備を加速させていく必要があります。
最後に重要な補足です。南海トラフ地震は、何の前触れもなく、言いかえれば、「臨時情報」が発表されることなくいきなり発生する可能性も十分にあります。
必ず事前に臨時情報が出されると誤解しないよう、その点は十分注意してください。
 ありがとうございました。

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