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「生きるために大切で意外なもの」(視点・論点)

法政大学 教授 湯澤 規子

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生きるうえで、一番大切なものは何ですか?
そう問われて、皆さんなら、何と答えるでしょうか。おそらく「食べること」とえる人はいても、「排泄すること」と答える人はほとんどいないのではないかと思います。
しかし、生きとし生けるものにとって、食べることと等しく、排泄することは、欠かすことのできない大切なものです。

「健康で文化的な生活」を営むための三要素として、よく「衣食住」という言葉が使われます。私はこれまで「衣食住」に注目し、最近では特に「食べることの歴史」に焦点を当てて、研究を進めてきました。
ところが、「食べること」についての研究が進むにつれ、「食べものがその後、どうなっていくのか」、ということが気になるようになりました。
「衣食住」だけでは不十分で、「出す」という現象も加えなければ、本当の意味での「健康で文化的な生活」を理解したことにならないのではないか、と思い始めたのです。
そこで「排泄」というテーマに取り組み始めますと、意外にも、その現象はほとんど論じられてこなかった、という問題に直面することになりました。
では、なぜ、生きるうえで大切なものにもかかわらず、「排泄」に関する議論は、ほとんどなされてこなかったのでしょうか。

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本日はこの疑問を出発点にして、「生きるために大切なもの」であるにもかかわらず、「見落とされてきたもの」である排泄が、じつは「生産と消費をつなぐもの」であった時代にさかのぼり、「天地の化育を助けるもの」であったことについて考えます。
その後、排泄は「忌避され排除されるもの」となってしまいますが、21世紀の今日、あらためて「世界の見方を変える最も身近なもの」としてとらえ直してみたいと思います。
これまで排泄が積極的に論じられてこなかったのは、「研究上の視点の欠如」ということももちろんありますが、もう少し広い視野から見ますと、私たちが「生きる」ことをどのように捉え、評価してきたのか、という問題とも深く関わっているように思います。
冒頭でおたずねした「生きるうえで一番大切なものは何か」という問いに対して、現代社会では「排泄すること」と答える人がほとんどいない、という状況がまさにそれを表しています。
研究も、私たちの生きる姿勢も、これまで「生産」という現象がその中心に据えられてきました。それが、「排泄」という現象を見えないものにしてきた要因なのではないかと、私は考えています。最近では「消費」についての議論が加わり、「生産」と「消費」という2つの視点によって、ようやく社会の全体が理解できる、という議論も展開してはいますが、「排泄」はそのどちらにも当てはまりません。しかし、だから「排泄」を論じないというのでは、私は「大切な何か」を見落としているような気がするのです。
生きるうえで「生産すること」と「消費すること」、言い換えますと、「働くこと」や「食べること」はもちろん大切ですが、それを続けていくためには、その2つをつなぎ、ぐるぐると循環させていくような「つなぎ役」が必要です。それが「排泄」、もう少し具体的に言いますと、「人糞(ふん)尿」であると気づかされたのは、約100年前の愛知県の織物工場に残されていた史料を見た時でした。当時の愛知県では醸造業、陶磁器業、織物業など、様々な製造業が盛んになっていました。最初に私は、そうした「産業集積」について、研究を進めていました。

すると、分析対象としていた織物工場の史料群の中に、「肥料渡帳」という名前がついた取引台帳が含まれていたのです。

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開いてみると、「大」と「小」が桶でいくつ、それを金額にするといくらになるかが書かれていて、その金額を「大根」で支払ったというようなことが記録されていました。
この「大」と「小」というのは、工場で働いていた人びとの「大便」と「小便」です。それが、周辺の農家によって買い取られ、「肥料」として農地に還元され、そこから大根が収穫され、再び労働者たちの食卓にのぼる。
そうした「土」を介した膨大な取引が記録されていたのです。

私はこの史料に出会って初めて、産業革命によって「大量生産」、「大量消費」が実現すると、それと連動して「大量排泄」という現象が生じていたことに気づかされ、さらには、その排泄物が「肥料」として売買され、農地に還元されることで、「生産」と「消費」がつながっていたことを知りました。

これは比較的知られていることですが、近世の日本では糞(ふん)尿を腐熟させ、「下肥(しもごえ)」という肥料として活用する農業技術が発達していました。
限られた土地で生産性を上げるためには、草や海藻、魚の絞りかすや家畜の糞(ふん)など、あらゆる有機物が肥料として用いられていました。江戸や大坂など、都市近郊の農地には、都市ならではの大量の有機物、つまり人糞尿(じんぷんにょう)が重宝され、巧みに利用されていたわけです。
 糞(ふん)尿が「生産」と「消費」をつなぐことは、近世に数々の「農書」を著した大蔵永常の文章からも知ることができます。

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農業でもっとも大切なのは「糞壌」(ふんじょう)であり、それは、「天地の化育」、すなわち自然が万物をつくり育て、色々な穀物で世の中を充たし、全ての人びとを養い、生きることを支えると説明されています。
糞壌(ふんじょう)というのは「肥えた土」というほどの意味ですが、まさにここに「糞(くそ)」という字があてられていることが重要です。
それに続けて、
「人は皆、そして生きとし生けるものすべてが、食べずして生きることはできないのだから」、と説き、糞(ふん)尿、食、人間、生きもの全てが土を介した農の営みの中で、ひとつながりのいのちの「環」として描かれているのです。

ところが、「土」を離れた生産活動が盛んになればなるほど、華やかな産業発展の影に隠れ、排泄や糞(ふん)尿は見えないものにされていきました。その背景には、あまりにも急激で過度な人口集中が進んだために生じた疫病の流行と、それを制御するための衛生技術の導入がありました。
例えば日本では、明治33年に「汚物掃除法」が制定されるのですが、この時の汚物には糞(ふん)尿は含まれていませんでした。農業で利用する慣行が認められていたからです。ところがその30年後の昭和5年になりますと、「汚物掃除法」の改正によって「糞(ふん)尿」は汚物に含まれ、行政がその処理に積極的に関与する仕組みへと変わります。
人間活動に翻弄されるかたちで、糞(ふん)尿は「汚いもの」、「危険なもの」として忌避され、排除されることになったのです。第二次世界大戦後、特に高度経済成長期以降の日本では、排泄物に対する制御と排除はさらに強化されていきました。

誤解を恐れずにいえば、昨今のコロナウィルスと私たちの関係も、過度な人間活動と人口集中、グローバル経済の急速な発展とともに、そういうこととも無関係ではないように思えます。それを制御しようとする様々な取り組みを目の当たりにしながら、あらためて、私たちはこの「地球という星」に生きるうえで、これまで何を大切にしてきたのか、そして、これから何を大切にしていくべきなのか、という大きな問いを投げかけられているような気がいたします。

21世紀の日本のトイレは非常に高度になり、振り向かずとも排泄物を瞬時に見えないものにすることができます。しかし、もしかしたらそれは、私たちが生きる世界についての大切な「気づき」と「思考」の機会を失っていることと同じなのかもしれません。

だからこそ私は、「食べること」をつうじた「食育」だけでなく、「出すこと」にじっくり向き合う「便育」という発想が必要なのではないかと考えています。

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世界各地でフィールドワークをする地理学者の仲間たちが、「衣食住」に「排泄」、つまり「出すこと」を付け加える必要があると常々考えていたと、話してくれました。
歴史や地域、気候風土が織りなす人間の暮らしの多様性の中に、排泄との向き合い方も、バラエティー豊かに織り込まれているからです。
そうした視点をふまえ、これからは、子どもたちや学生たち、そして皆さんと一緒に、「排泄」をめぐる様々な事象を見つめながら、未来への指針を探していきたいと思っています。

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