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「外食の歴史から見えること」(視点・論点)

作家 生活史研究家 阿古 真理

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 新型コロナウイルスの感染拡大を防ぐため、外食を自粛せざるを得なくなっている人はたくさんいると思います。そこで今日は、コロナ禍で関心が高まった外食にはどういう役割があり、これから私たちがどうするべきかを考えてみたいと思います。

 外食には、大きく三つの目的があります。一つは人との会食、二つ目は日々の食事を賄うこと、そして三つ目がレジャーです。そのうち会食とレジャーについて話したいと思います。
 まずは、会食について。

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日本で最初の料理屋は、元禄時代の大坂で文化人が集まる場を求めてできた「浮瀬(うかむせ)」でした。やがて、江戸や京都にも料理屋が次々と誕生します。

 明治時代になると、外国人をもてなす、あるいは政治やビジネスの会合をするために、レストランが生まれました。

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西洋料理店とホテルを兼ねた精養軒は、築地で明治5年に産声を上げました。創業者の北村重威が岩倉具視の側用人だったことから、岩倉など政財界人の支援を受けて店を開いたのです。関東大震災で焼失しましたが、岩倉と大久保利通のすすめで開いた上野公園の支店が無事で、こちらが現在まで続いています。

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 明治17年に一般営業を開始した中国料理店、偕楽園は現在の茅場町にありました。もともと、その前の年に長崎で中国関係の仕事に関わってきた通詞たちが発起人となり、近衛文麿、犬養毅、渋沢栄一、大倉喜八郎といった政財界人らの会員制クラブとして始まりました。しかし採算が合わなかったことから、支配人だった笹沼源吾が引き受けて店にしたのです。笹沼の息子の源之助は、谷崎潤一郎と幼なじみで生涯にわたりつき合い、パトロンにもなった人でした。この店は、昭和19年に休業させられ翌年に空襲で焼失。戦後、天然ゴム関連のビジネスを興した源之助は、店を再興していません。
このように、会合の場が必要とされたことから、高級店は始まっています。
                              
一方、庶民にとって会食の場は長らく、自宅でした。田舎の家では二間続きの和室が設けられていることがありますが、それは家で宴会をするためです。テレビドラマなどで、自宅の和室で結婚式を行うシーンを見た人もいるでしょう。向田邦子のエッセイ「父の詫び状」には、保険会社の支店長をしていた父が夜中に客を連れ、宴会の続きをすることがあったと記されています。昭和育ちの人には覚えがあるかもしれませんが、お父さんが会社の部下を集めて家で宴会をする、ということは珍しくありませんでした。私の父も週末に部下を招いてマージャンを楽しんでいました。煙草の煙がもうもう立ち込める和室へ、ウィスキーに入れる氷を運んだものです。そうした習慣は、外食店が割高で選択肢が少なかったこと、妻たちの多くが専業主婦だったから成立しました。
 妻たちも、家に客を呼んでもてなしました。私が小学生の頃、よく自宅に母の友人たちが集まっていました。おとなしくするのは窮屈でしたが、お土産のバウムクーヘンやクッキーは楽しみでした。

 家での会食が少なくなっていくのは、昭和の終わりから平成にかけてです。それは、多忙な女性が増えたことと、外食の選択肢が増えたことが主な原因です。女性に焦点を当ててみると面白いのですが、家族の外出で、外食の楽しみを知った人が多いのです。

 ここからは、レジャーとしての外食の話に移ります。一般家庭の女性たちを軸に、その歴史を見てみましょう。
女性たちがレジャーとしての外食を体験できるようになったのは、大正時代になってからでした。関東大震災後、東京の百貨店はその頃増え始めた中流家族をターゲットにし、子連れの女性が使いやすい店をめざすようになります。百貨店食堂も充実させます。
 お子様ランチが誕生したのは昭和2年で、日本橋三越でした。それでも、昭和半ば過ぎまで百貨店食堂で家族の会食を楽しむ以外、主婦たちには外食の機会がなかなかありませんでした。

 彼女たちの会食の場面が広がっていくのは、1970年代になってファミリーレストラン、つまりファミレスのチェーンが郊外に生まれたことがきっかけです。
 各地に増えたのは1980年代。その頃には自家用車を持つ家庭も多くなっていました。都心にある百貨店食堂へよそ行きを着て出かけた主婦たちも、自宅から近く車で行けるファミレスには、特におしゃれをしないで行くようになっていきます。

 そうした親たちに連れられて、子供の頃からファミレスで気軽に外食する習慣を身に着けたのが、現在50代ぐらいの世代です。この世代はバブル期、ブームだったフランス料理やイタリア料理を楽しむようになります。また、会社員の女性たちも、この頃創刊された女性誌を片手に友人たちと話題の店へ行き、レジャーとして外食を楽しみ始めました。
実はその前の1970年代の終わり頃から、キャリア志向の女性たちが増え、他のお金を切り詰めてでも楽しんだのがフランス料理でした。日本人好みのフランス料理店が次々とできていたからです。自分のお金で食事できる女性が増えたことが、レジャーとしての外食の幅を広げ、流行を生むようになってきたのです。

 1990年代はアジアの料理、ハワイの料理など、さまざまな外国料理が流行します。その後インターネットが普及し、飲食店の情報は格段に増えました。テレビも盛んに飲食店情報を取り上げます。21世紀初頭、グルメの楽しみはすっかり庶民の日常になったのです。

 このように、外食の歴史を辿ってみれば、私たちがいかに外食を楽しみ不可欠な場としてきたかが分かります。人と集まって楽しむ場も、家では作れない食事を楽しむ場も、そしてもちろん日々の食事を賄う場も必要なのです。

 生き残りをかけた飲食業界の新しい動きは、すでに始まっています。
コロナ禍のおうちごはん需要の高まりに対応し、テイクアウトを始める店だけでなく、独自のミールキットを開発して販売するシェフや、冷凍食品を独自に作って販売する飲食店があります。
通常営業の負担を軽くするため、コロナ以前から一日に提供する皿数を決め、売り切れ御免で閉店することで、労働時間を短縮させた経営者がいます。日替わりコースのみとし、材料の無駄をなくす店もあります。利用しづらくなったことで外食の大切さに気付いた私たちは、持続可能な働き方を模索する店の応援をするべきではないでしょうか。                               

 しかし、多くの店は、新しい知恵を出し実行する余裕がありません。休業、閉店が相次ぎ、失業する人がたくさんいます。自殺する人もいます。コロナ禍が収束した後、彼らは再起できるのでしょうか? そう考えたとき、改めてこの国がセイフティーネットが充実していないことを思わざるを得ません。
 休業支援をする政府も、廃業補償までは行っていません。それはもしかすると、失敗を認めない風潮があるからではないでしょうか? 飲食店の人たちには失敗する権利があるはずです。また、コロナ禍が収束しても、これからどんな脅威が私たちの暮らしを襲うかわかりません。そのとき、どの職業が継続を脅かされるのでしょうか?
何かあったときに仕事を辞める、中断するなどしても、やり直して生きていける社会にするためのセイフティーネット作りが必要とされています。

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