「私たちはSFから何を得ることができるか」(視点・論点)
2021年05月17日 (月)
SF作家 小川 哲
どちらかというと、小説家は新型コロナウイルスの影響をあまり受けない職業なのですが、去年から何度か「コロナ禍の世界を予言したSF小説を紹介するエッセイを書いてほしい」という依頼を受けました。そのたびに、僕は腕を組んでしまいました。
そもそも、SF小説は未来を予言するものなのでしょうか。時としてSF作家が「予言者」と呼ばれることは知っています。実際にSF作家は様々な「未来」を予言してきました。「インターネット」「震災」「メルトダウン」「スマホ」「人工知能」「月面着陸」など、過去のSF作家が描いた未来が現実となった例はいくつもあります。
コロナに関してはどうでしょうか。実際にパンデミックを扱ったSF作品は数多く存在しますし、その中のいくつかはコロナ下の社会で起こった事柄の一部分をかなり正確に予測しています。ですが、僕が今日言っておきたいのは、SF作家の仕事は未来を予言することではないし、正確な未来を知るためにSF作品に触れるべきでもない、ということです。
たとえば二十世紀のSF作家の多くは、電話がいずれ消滅するコミュニケーション手段だと考えていました。当時の作品に描かれた未来では、距離を隔てた人々は「映話(えいわ)」で会話をしていたのです。「映話」とは映像通話、いわゆる「テレビ電話」のことで、技術的にはかなり前から可能になっていましたが、結局のところ電話が消滅することはありませんでした。
SF作家の予言が実現していない例なら、他にも数多くあります。核兵器を用いた第三次世界大戦は起こらなかったし、いまだに車は空を飛んでいません。人類は火星に到達していないし、世界政府が誕生する兆しもありません。僕の知る限り、瞬間移動も、タイムトラベルもまだ実現していません。
コロナのようなデザインのウイルスをフィクションに登場させた例も僕は知りません。パンデミックを題材にしたフィクションでは、多くの場合「致死率が非常に高いウイルス」が「誰かの手によって作られ」、「人類は滅亡を回避するために戦う」話になります。コロナのように、致死率はさほど高くないけれど、感染力が非常に強いウイルスによって、世界が苦境に陥る、という形のパンデミック作品は、少なくともSFの主流ではありません。
では、どうしてSF作家は未来を予測できないのでしょうか。答えを簡潔に言うと、「人間だから」です。「人間だから」というのは、SF作家自身が人間だから、という意味だけではなく、未来を作り上げていく主体が人間だから、という意味も含みます。
実を言うと「科学技術が将来的にどんなことを可能にするか」という観点だけでしたら、それなりに予測することができます。先ほど例に挙げた「映像通話」もそうです。
遠く離れた人と聴覚を使ってやりとりすることができるのなら、いずれ視覚を使ってやりとりをすることもできるようになるだろう、という発想です。その発想を広げていけば、今後は投射した三次元のホログラムを使って、肉体を使ったコミュニケーションができるようになるだろう、という予測なんかもすることができます。
しかし、そういった技術を僕たちが使うようになるかはわかりません。実際に、僕たちは映像通話が可能になってからも、電話を使い続けています。お互いの顔が見えないという電話の技術的に未熟な点が、コミュニケーションにおいて有効に働いたのです。もっと言えば、電話よりもさらに情報量の少ない「テキストチャット」が現代のコミュニケーションの主流となっています。
最先端の技術があったとしても、それを利用するのは結局のところ僕たち人間です。僕たちは人生の様々な選択を、進歩という尺度だけで選択しているわけではありません。面倒そうだったり、不都合だったり、お金がなかったり、時間がなかったり、そういった「人間的な」観点から、技術の進歩を無視することがあるのです。
僕たちは技術の進歩を無視するだけでなく、「制限」することさえあります。「倫理」の問題です。現代においては、技術だけでなく、というかそれ以上の速度で、倫理も進歩しています。たとえば研究開発された新薬は、市場に出回るまでに複雑な試験を通過しなければなりませんし、人間のクローンは主に倫理的な理由から実用化に至っていません。便利な技術も、社会の基準が変わってしまえば無用のものになってしまう可能性があります。
夢のような技術が悪用されたり、ユートピア(理想郷)がディストピア(暗黒世界・反理想郷)に反転したりすることもあります。つまり現代において、未来を考える上では
「人類には何ができるか」を考えるだけでは不十分です。同時に「人類は何をしてはいけないか」も考えなければならないのです。どれだけ便利な技術でも、それが特定の誰かを傷つけるものであれば、僕たちは利用することができなくなってしまうかもしれません。世の中には様々な価値観を持った人たちがいて、僕たちはそれぞれの価値観を可能な限り認めていかなければなりません。そんな時代に、正確に未来を予測することなどほとんど不可能です。
SFとは何でしょうか。あくまで僕個人は、「科学的な空想によって人々の知識と想像力を拡張する芸術」だと考えています。SF作品ではしばしば、極端な状況や、大げさな設定が使用されます。宇宙人が地球に侵略してきたり、核戦争で世界が滅びたり、全体主義によって国家が支配されたりします。それらは未来を予測するためのものではなく、人々の想像力を拡張するためのものです。
地球にやってきた宇宙人は何を考えているのかも、何を目的にしているのかもわかりませんが、それでも彼らとコミュニケーションを取らなければなりません。宇宙人が実際にやってくるかどうかは別にして、僕たちは自分たちが理解できない存在と出会うことはあるでしょう。それは世代の差だったり、文化の差だったり、価値観の差だったり、人種の差だったりするでしょう。そんなときに、宇宙人と出会うことへの想像力が、何かヒントを与えてくれるかもしれません。
SFで描かれる極端で大げさな未来は、僕たちが現実世界で抱える不安や矛盾を目に見える形に置き換えたものです。僕たちが人間であり、SF作家が人間である以上、「極端で大げさな未来」が実際に訪れなかったとしても、同様の問いは残されます。
こうして、SFは人々の固定観念を見つけだし、その事実を突きつけます。科学技術が誰かを傷つける可能性や、傷ついた誰かを救う可能性を提示します。僕たちが考えているよりずっと世界は広いのだと教えてくれます。技術と倫理が抱える複雑で難解な問いに対して、正面から向き合います。
僕たちは人間です。しばしば、深刻な問題に見て見ぬふりをしてしまいます。物事を偏った視点で見てしまいます。自分の常識にとらわれて本質を見失ってしまいます。もちろん、それらをすぐに、根本的に解決する手段など存在しませんが、SF作品はそこから抜け出すヒントを与えてくれると思います。
巷には数多くのSF作品が流通しています。それらの作品によって常識が覆される経験を、それらの作品が提示した問題に心を悩ます経験を、それらの作品が示した希望に生きる力を与えてもらう経験を、ぜひ味わってもらいたいです。