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「危機の中で音楽のゆくえを考える」(視点・論点)

京都大学人文科学研究所 教授 岡田 暁生

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 コロナのパンデミックによって、最初の緊急事態宣言が出されておよそ一年。再び緊急事態宣言が出され、私もこうして自宅で話しています。

 さて、コロナが人間社会にもたらした衝撃の最たるものといえば、それは一緒に食べる、一緒に笑う、一緒に抱き合うといったことが極めて難しくなってしまったということに尽きるでありましょう。一緒に食べて笑うことが人間の根源的な営みであったことを、私たちは知りました。そして音楽もまた、コロナによって危機に瀕している、こうした営みの一つであります。つまり「音楽」とは「空気の振動の芸術」であって、「音楽を聴く」ということは「振動する空気を一緒に吸うという経験」だからであります。

 ひょっとすると「音楽がコロナで危機に瀕している」と言われてもピンと来ない、この間もずっと音楽は聴いていたという方もおられるかもしれません。しかしながら、恐らくそれは録音された音楽、つまりネット動画やCDのことでありましょう。これらは果たして、ライブハウスやホールで経験する生の音楽と同じものなのかどうか。

 先ほど申しましたように、音楽とは本来「振動する同じ空気を一緒に吸う」ということであります。一蓮托生の三密空間が音楽の前提だとすれば、この一蓮托生の共同体は録音音楽には存在しておりません。「離れていても心は一つ」と申しましても、時間と空間を共有した経験を一切持たずして、つまりオンライン上だけで、こうした「絆」を新しく作るということは、相当に難しいはずです。

 飲食店の方々が危機的状況に瀕しているのと同じように、そしてまったく同じ理由によって、今音楽関係の方々は、とてつもない苦境に面しておられます。「三密空間の中で一緒の空気を吸う」という営みが、それが飲食店であれライブハウスであれ、等しく困難になっているわけです。多くの公演が中止になり、あるいは集客困難になり、また座席数を半分にしなければいけないせいで採算がとれない等。オンライン配信によって苦境を打開する試みもありますが、結局多くの音楽ファンは「やはりオンラインでは何かが足らない」という実感を持ち始めているように思われます。

 さて、実は「コンサート」という制度はそんなに昔からあったわけではありません。

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私たちの知るコンサートが始まるのはおよそ1800年ごろからでして、これは1810年ごろのウィーンにおけるコンサートの風景ですけれども、場所は大学の講堂であります。つまり当時はまだ「ホール」というものがなかった。

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それに対してこちらは1870年、ウィーンの有名な楽友協会ホールのオープニングの様子であります。こちらではもう既に私たちがイメージするコンサートの風景が完全に出来上がっているということが分かります。そしてまた忘れてはならないのは、コンサートが今の形へと形成されたこの時期が、公衆衛生の発達と時代的に完全にかぶっているということでしょう。衛生学の発展によって、人は安心して大人数で集まれるようになったわけです。しかし今、私たちは再び、大勢で密集することに対して「こわごわ」でなければならなかった時代に逆戻りしてしまったようにも思えます。

 今の状況がこれから一体どれくらい続くのか。それはもちろん神のみぞ知る、でございましょう。そして私も、一刻も早く以前と同じように、ホールやライブハウスで集える日が来ることを願っております。しかしながら、「昔に戻す」ことと同じくらい重要なのは、「こんな状況にでもなかったら、考えつきもしなかった」というような、新しいアイデアを生み出すことではないでしょうか。
 多くの関係者が、対策をとりながら、以前と同じ形で何とかコンサートをやろうと、死に物狂いで努力しておられることは、分かりすぎるくらい分かっております。しかしながら、「対策をとってする」ということは、どこまでいっても「次善の策」にしかならないことも、厳然たる事実であります。

VTR①(バルセロナのオペラ劇場 ライブ中継) 
「この状況だったからこそのアイデア」という例として私が思い出すのは、昨年6月、バルセロナのオペラ劇場がホール再開に際してやった試みです。これは無観客のライブ中継だったのですけれども、2000の座席に植物を置いてやるコンサートの試みでした。いわば植物に聴いてもらう音楽、というアイデアでして、人間と音楽と自然の関係を、この機会に問い直そうというメッセージが鮮烈でありました。

VTR②(秋吉台国際芸術村 電子音楽のコンサート)
あるいは昨年9月、秋吉台国際芸術村で行われた電子音楽のコンサートも忘れられません。ここのホールは非常にユニークな空間設計で知られておりますが、遠く人里離れた森の中にあります。このユニークなホールの中庭を使って、日没とともに、かつての前衛作曲家クセナキスの電子音楽を聴かせるというのが、このコンサートでありました。

VTR③(岐阜サラマンカホール オンラインイベント)
あるいは日本を代表する現代音楽の作曲家の一人である三輪眞弘(みわ・まさひろ)さんは、「音楽のお通夜」と銘打った大胆な試みを行っています。昨年9月に行われましたオンラインイベントでは、除菌シートがかけられ、ニワトリが走り回るコンサートホールのステージから、ガムランやオルガンや筝(こと)や人工音声が、「音楽の死を悼む音楽」を奏でる様子が、深夜リアルタイムで中継されました。 

 このパンデミックは、人の距離感というものに、長期にわたって相当の影響を与えずにはおかないでしょう。この一年で私たちの感覚の中に刷り込まれてしまった、「密接」というものへの恐怖心のようなものを、私はあなどってはならないと考えております。であるならば、この新しい距離感を表現する新しい音楽があっていい。例えば、ホールのロビーや中庭で音楽をやってもいいし、ホールの扉を開けっぱなして、通りすがりの人が耳に出来るようにしてもいいだろう。あるいは滝の音をバックに川べりで音楽を聴かせても楽しいでしょう。それはきっと、ホールやイベント会場で密になって盛り上がるというのとは少し違う音楽になるはずです。

 予想外の場所で音楽をすることで、予想外の発見がないはずがありません。音楽を一緒に聴くために、かつてのように密集できないのだとすれば今の状況の中で可能な、今の状況でしか出来ない大胆な前向きの実験が見てみたい、パンデミックを新しい音楽表現の開拓に転じてほしいと強く願う次第です。

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