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「多様性と利他」(視点・論点)

東京工業大学 准教授 伊藤 亜紗

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みなさん、こんにちは。
きょうは「多様性」という言葉について考えてみたいと思います。

本当に「多様性」という言葉を聞く機会が増えたと思います。「多様性を大事にしましょう」とか「ダイバーシティに配慮しましょう」。こういった言葉を聞く機会がとても多いと思います。
確かにみんなそれぞれ、さまざまな属性を持っていて、性別が違うとか宗教を信じているのが違うとか、文化が違うとか、障害を持っている持っていないとか、病気をもっているもっていない。こういった違いに配慮するということはとても重要なことだと思います。
一方で、「多様性」という言葉があまりに頻繁に口にされることによって、なんだかだんだん空虚なものになってきたのではないかなという気もします。実際、研究の中で様々な障害を持った方とお話をする機会が多いのですが、あまり当事者の方はこの言葉を使いません。

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そういわれてみると、多様性という言葉でよく引用される金子みすゞさんのこの言葉「みんなちがって、みんないい。」という言葉も、ちょっと間違えると「人は人、自分は自分」のように、「自分のことには干渉しないでね」「お互いの領分は守って干渉しないようにしましょう」という、人と人の分断を言っている言葉にも聞こえるわけです。つまり「多様性」という言葉が、社会的に分断を容認する免罪符になっているのではないか、とそんな気さえしてきます。きょうはこの「多様性」という言葉について、もう一つ重要なキーワード「利他」という観点から考えてみたいと思います。

 研究の中で、障害を持っている方とかかわると、当事者の周りにはさまざまな「利他的」な行為が行われています。ところが、一見「利他的」な行為がよくよく考えると本人のためになっていない、ということがたくさんあるように思います。少し例をご紹介します。

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この方は、若年性認知症当事者の丹野さんという方ですが、丹野さんが認知症当事者の集まりに行ったりすると、まわりの人がすぐ手を貸してくれるというのです。例えば、これからお弁当を食べましょう、というとまわりの人がお弁当を持ってきてくれて、蓋をとってくれて、割り箸を割ってくれて、さあどうぞって感じになってしまうそうです。それはとても便利だし、楽なんだけれども、当事者からすると、自分でお弁当を持ってきて、蓋をあけてお箸をとって自分で食べるほうが、絶対おいしいって思うんですね。周りの人が本人がやったら時間がかかるんじゃないかとか、途中でお弁当こぼすんじゃないかとか、さまざまな心配をして先回りをして、さまざまなことをやってしまう。そのことが結果として、本人の挑戦する気持ちをそいでしまったり、それが結果として成功体験をなくしてしまったり、自己肯定感を下げてしまう。そういったことがさまざま起きているように感じます。

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もう一つ別の例ですが、この方は全盲の方、視覚障害の方ですが、目が見えなくなってから自分の生活が毎日毎日バスツアーに乗って観光しているみたいだ、っていうんです。例えばそれは、外出しようとすると、いつも健常者の人がサポートしてくれて、全部言ってくれるというんです。「ここちょっと段差ですよ」とか「ここコンビニですよ」とか「そこ曲がってください」と言われて、自分はその通りやっていくような、本当にお客さんになってしまったというんです。これは自分で時間がかかっても世界を感じたい、自分で外にでて冒険したいという気持ちを、先回りの一見「利他的」な行為が、その気持ちをそいでしまっている、そういうことのような気がします。
ここで起こっている大きな問題というのは、「信頼」だと思います。

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「信頼」とはなにかということを考える上で、「安心」という言葉と比較したいと思います。一見この言葉、とても似ているのですが、ちょうど向いている方向が真逆なんです。一つ例を出しますと、20歳ぐらいの学生がご両親からGPS端末を持たされていました。その学生は、とてもご両親に大事にされて、いつでもどこでも現在地がわかるように、そのGPS発信機を持たされていました。それは、ご両親からすればとても「安心」だと思います。ところが、それは「信頼」にはなっていかないのではないかと思います。
つまり「安心」というのは「不確実性」。この人は自分と違う別の人だから、どういう行動をするのかわからない、その「不確実性」をなるべくなくしていこうというのが「安心」なんです。そしてそれはどうしても、人を管理する、という方向に向かってしまいがちです。
一方で「信頼」というのは、この人は自分と違うのだから、どういう行動をするのかわからない「不確実性」を持っているけれども、でもこの人だったら大丈夫だろうと任せることなんです。「安心」というのは当然重要なことですが、100%の安心というのはないわけですし、特に現代においてはさまざまなテクノロジーが入ってきて「安心」のほうばかり注目されがちだと思います。そのことがどこかで「信頼」というものの登場する場面をどんどんなくしてしまっているのはないかという気がします。

 さきほどお話しした認知症当事者の方とか視覚障害の方が感じていることも、自分は「信頼」されていないのではないか、そういうことなのではないかと思います。
そこで考えてみたいことが、私が障害を持っている方、病気を持っている方と接するときにいつも強く感じることがあります。それは、障害を持っている方というのは、いつも障害者なわけではありません。普通に家に帰ったらお父さんだったり、会社に行ったら上司だったり、なにか特定のテーマに関しては私の先生だったりするわけです。

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そういうさまざまな顔というのを人間はもっているわけです。
その一人の人の中にも、さまざまな「多様性」を持っているという事に注目すると、「障害者だから障害者として接する」というのではない、さまざまなかかわり方というのができてくると思います。それは別の言い方をすると、自分の前にいるこの人は、自分には見えていない側面を持っているんだという、そういう敬意を感じながら人と接するという事だと思います。

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ここにポスターを紹介しているのですが、これは私がアメリカのマサチューセッツ工科大学というところで偶然発見したポスターなんです。ここに黒人の女性が二人写っていて、一見すると、いかにも「多様性」についてのポスターのような感じがします。ところがよく見ると、そのすぐ横に「Be your whole self」と書いてあります。この「whole self」というのは、まさに人にはさまざまな側面があって、さまざまな顔全部を肯定しますよ、とそう心に感じました。この言葉は、すごく、そういう意味で本質的な「多様性」を謳っているポスターだと感じました。

人にはさまざまな顔があるということを考えて行くと、「利他」ということの答えも見えてくるように思います。一般には「利他」というのは、自分からなにか能動的に「善行をしよう」ということとして考えられがちですが、

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実は本当の「利他」というのはそうではなくて、自分の中に「スペース・余白をもつ」、それが結果的に「利他」になるのはないかと思います。自分の中にスペースがあると、自分の前にいる人の一見、見えていない可能性というのをうまく引き出すことができるし、そのとき同時に自分も変われるのだと思います。このひとは障害者なんだとか、こうしなくてはいけないみたいな計画がはっきり決まってしまっていると、そこには「スペースがない」、結果としてその人の「多様性」というのは引き出されないと思います。そうではなくて、「スペースをもつこと」。そのスペースに「利他」がはいってくる、そういうことのように思います。
一方で、私たちが生きているこの現代社会というのは、さまざまな行為が数字によって評価される、そういう時代だと思います。数字というのはもちろん重要なのですが、一方で私たちの行為全部が数字によって評価しうるわけではないと思います。そういう意味で数値的な評価からちょっと「スペースをもつ」。そうではない大事な側面というのも存在すると感じることが「多様性」や「利他」ということ考える上では重要なのではないかと思います。

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